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2004年08月30日

デザイン

子供が夏休みの宿題の工作を作り出した。そういえば私も工作だけは夏休みが終わりに近づくまで、なかなか出来なかったものだ。

子供が作ったものを見ながら、なぜかオリンピックの跳馬の台を思い出した。選手が跳んでいる姿も格好良かったのだが、 あの台のデザインもなかなか格好良かったなぁ・・・・・と。そうそう、そう言えば卓球台の脚のデザインも今までと違っていて格好が良かった。 卓球という競技がちょっとスマートに見えた。かなぁ?

ひょんなことから、今日の日曜日の昼間に大阪の電気街である日本橋を歩いた。子供が夏風をこじらし高熱が続いて肺炎になってしまった。 ちょうど入院している病院が日本橋にあったのだ。久しぶりにジャンク屋さんなどに立ち寄った。 小さなスイッチ類やコンデンサーや抵抗器や基盤なんかのデザインを見ているだけでも楽しくなって来る。電気街もパソコンのブームも落ち着き。 今は携帯電話やプロジェクターやオーディオなんかも目立っていたりする。 高校生の頃に憧れていた古いタイプのJBLやタンノイの中古のスピーカー、マッキントシュなどの真空管アンプなどが飾ってあり、 思わず欲しくなってしまう。

そういえば、安藤忠雄さんが設計した六甲の集合住宅の山側にR状の屏風のようなデザインのコンクリート打放しの壁を写真で見た時、 思わずJBLのパラゴンというスピーカーのデザインを思い浮かべてしまった。その昔は、 大阪の道頓堀付近にあったバンビというjazzのかかるコーヒーショップにパラゴンというスピーカーが置かれてあった。 そこから流れる音よりもデザインの美しさを見たくて、しょっちゅうコーヒーを飲みに行った。 そこの2階には同じJBLでもまったくデザインも趣も違うオリンパスというスピーカーも置いてあって、 それはそれで今でも憧れのスピーカーのひとつであったりする。最近のシャープなデザインのスピーカーもそれなりに格好良いのだが、 どちらかと言えば、あの当時のデザインが何とも言えず良かったりするのだ。

朝晩は過ごしやすくなってきた。夏も終わろうとしている。オリンピックも終わろうとしている。オリンピックのマラソンを見ながら、 そんなことを思った。

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2004年08月20日

お盆休み

男子体操団体が金メダルを取った様子を伝えるテレビを能登、羽咋にあるサウナの中で汗を流しながら見た。 前に座って同じテレビを見ているおっちゃんが、鉄棒で最後の選手が着地した瞬間。そして、 表彰台に立った選手達が手をあげた瞬間に浮かべた微笑みが、なんとも印象的だった。 見ず知らずの人とひょんな場所でひょんな汗をかきながら共有した喜びのその時その場所が記憶の印象として焼き付いた。  

17才の大学受験生と7才の小学2年生の息子を持つ、お盆休みの親の立場は微妙だ。受験生をほったからして遊びに行くとは何たることかと、 私達の両親には非難される・・・・。下の息子は海だ海だと執拗に迫る・・・・。考えてみれば、 私にとっても社会人として働きだしてからの20年間、お盆休みに大阪に居たことがなかった。生まれてからこのかた、ずっと大阪・生野区・ 小路に居ついている。寝るところと働くところが同じ場所なのだ。そんな環境のせいか、時には松尾芭蕉のように「日々旅にして旅を栖とす・・・ ・」なんていう心境にも憧れたりする。まぁ、そんな「旅」の境地に触れる機会が私のお盆休みでもあったりするのだ。  

長男とは0才のお盆から昨年のお盆までの16年間ずっと一緒に「旅」をした。道東道北・東北・佐渡・能登・信州・飛騨・四万十川・屋久島・ 沖縄・・・・・etc。家族だけだったり、私の友人と一緒だったり、息子の友達が一緒だったりと、 息子や奥方のためというより自分のためだったのかもしれないと反省はするものの、どれもが、それなりの「旅」だった。  

働きだしてから初めて大阪で過ごすお盆休み。ゆっくりと朝風呂に入った後、 次男の要請もあり日本橋でプレーステーションのサッカーゲームを買いに行く。ついでに、 マイルスディビスのDVDとジョンコルトレーンのCDなんかも買った。ちなみに、 私はマイルスやコルトレーンやミンガスやモンクなんていう50年代や60年代のJAZZファンだったりする。 といいながらも最近流行の私のIPODの中には70年代80年代のウエストコーストの音楽、イーグルス、ドービーブラザーズ、ネトドヒニー、 ニールヤング、ライクーダー、ディブメーソン、ザバンド、ボブマリー・・・・等々も入っていたりして、いわゆる、 それらが青春時代の思い出の曲だったりするのだ。 

こんなコミュニケーションの取り方が良いのか悪いのかよくわからないのだが、二人の息子とサッカーゲームでバトルをして過ごした。 17才はもとより7才の息子にも負ける。ほとんど、連戦連敗に近い・・・・。それでもゲームを通じて、 通い合う something else もあるのだと。 

負けてばかりするのもあまり気持ちよくないので、もう、疲れた。と不機嫌面などをして、勘弁してもらい、ゆっくりと、 DVDを見ることにした。先ほど買ったばかりのマイルスのDVDを見て、リズムをつけた後、 アマゾンドットコムから仕入れておいた LANDSCAPE OF ARCHITECTURES DVD-BOX 世界の建築鑑賞 なんていう3枚組のDVDを見ることにした。 1巻が2時間ほどするため、まとまった時間がなくて、なかなか見る機会がなかったのだ。 

何気なく見だしたら、その映像の美しさとフランス語による解説のリズムの心地よさに思わず眠りそうになりながらも、 内容の濃さと共に建築家がどのような発想と経緯でその建築を実現したのかが丁寧に解説されてあったので、どんどん引き込まれていき、 ほんとうに見入ってしまった。 

こんな映像を見ながら皆で話し合う・・・。そんな建築の教育があっても良いと思った。建築を教え、 伝えるという学校のプログラムには疑問だらけだった。当時、私は大学の建築の授業を受けて、建築への興味がどんどん失せていったのだった。 勿論、教育のせいだけではなく、当時の私の内面世界がそうさせたのだと思うのだが・・・・。 

オリンピックも始まった。いきなり、ヤワラちゃんが金メダルを取り、ご主人が客席から満面の笑顔と涙で声をかける。 それに涙で答えるヤワラちゃん・・・・。そんな場面に心が動いた。卓球の愛ちゃんが得点が決まった時に握り拳と共に発声する「ヤァー」とも 「ミャァー」とも判別のつかない声・・・・それにも不思議な印象を持った。そんなテレビを繰り返し見たりしながら、息子とのゲーム・ 建築のDVD・JAZZのCD・家族との食事で二日間が過ぎた。 

次男が「海は・海は」と卓球の愛ちゃんのあの発声にも似た調子で呪文のように唱えだした。私の「旅」への禁断症状もでてきた。長男が、 次男が旅行に行けないのは可哀想だから旅行に出かけろ。と泣けるようなことをいう。奥方は旅行に反対していたが、私の禁断症状も加味してか、 一泊二日でキャンプに行くことになった。長男と何度も行った能登大島海岸海水浴場へと。 

一日目は快晴だった。夜、潮騒の砂浜で花火をした。満天の星空だった。それにもかかわらず、二日目は朝から雨が降った。 いまの様々な状況を加味して、早々に引き上げてお風呂屋さんにいくことになった。そして、そこのサウナで、オリンピックを見たのだった・・・ ・・。 

旅行を終えて帰ってみると、な~んだ、長男は勉強そっちのけで、友達と外で遊んでいたのだった。「親の心子知らず」なんて、 親になってはじめてわかるものだなぁ。私も似たようなことをしてきたのだと・・・・。 自分がしてきたことへの自戒も含めて悶々とした気持ちになった。それでも子供にとっては、それはそれで良いのだと思う。 全ては自分にふりかかり、自分で解決していくものなのだと。そして悶々とした親の気持ちは、親自身の心の問題として、 愛情として解決していくものなんだと・・・・。 

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2004年08月09日

転ばぬ先の杖

先週の金曜日の朝、会社のサーバーのハードディスクがクラッシュするという事故に遭った。ついていない時とは、 こういうことを言うのだろうか?それともやはり心がけというのが悪かったのだろうか。そうだなぁ。詰まるところ、所謂、 危機管理体制がまずかったのだ。

前日の夜、 パソコンのシステムを構築してもらっている会社と新しいバックアップ体制を整えたシステムにやり替えるという事に決めたばかりだったというのに・ ・・・・。その次の日の朝の事故であった。

もともとは、バックアップ用に稼働していたパソコンが動かなくなった。それが昨年の11月のことだ。 これを機会に新たなやり方でバックアップが出来るシステムを構築することで、話し合っていた。そんなに、切迫感をもっていなかったので、 その打ち合わせのペースがゆっくりしていたのだ。今から思えばそれがいけなかった。結局、決定したのが先週の木曜日だったと言うわけだ・・・ ・・・。

保険が切れて、更新するのを忘れ、その間に地震が来て建物が半壊した。そんな状態だった。 最近の1年間ほどのデータが復旧されないままの状態に陥ってしまった。

この1年間、新たにお会いした方々のデーターを消失してしまった。勿論、紙に保存されたデーターもあるので、 全てをなくした訳ではないのだが、ひょっとしてご迷惑をお掛けすることになるのかもしれない・・・。これを読まれた方々で、 11月以降に出会って、私のメールアドレスをご存じの方は、近況のメールでも送ってやって下さい。スミマセンオネガイシマス。



振り返ってみれば、コンピューターの構築にも結構、苦労してきた。パソコンというものが登場して、会社で使い出すようになってからも、 すぐにLANを構築した。当時はリコーのスターランと言うシステムで構築してもらった。「共有」するという事、「繋がる」という事、 そう言う考え方が好きだった。ファイルを皆で共有した。

そのうちインターネットというものが登場しだして、「共有」というものが社内という小さな単位ではなく、世界的な規模で、 グローバルな単位で「繋がる」という事が出来ると知って、ワクワクとした気持ちになった。メールとホームページは画期的だと思った。 暫くして、 kimuko.net と kimuko.co.jp というアドレスを取得してホームページを立ち上げた。

また、スケジュールを共有するという事にも興味があった。いろいろなことを試しているうちにサイボウズというグループウエアーに出会った。 レンタルサーバーを借りて、そこにホームページとサイボウズを置いた。パソコンを持った社員だけでスケジュールを共有することにした。 それでもまだ、社員全員が1人1台のパソコンを持てるような状況ではなかった。

暫くして、ウインドウズでもマックでもなく、リナックッスというシステムがあることを知った。10万円ほどでパソコンを組み立て、 本の付属についていたリナックスをインストールして、インターネットサーバーを立ち上げた。 リナックスという軽くてオープンなシステムはその考え方も魅力的だった。OCNの専用回線を引き込んで自社の中で、 サイボウズというグループウエアーを共有するようになった。現場の担当者もパソコンを使えるようにと、チープなパソコンを捜して、 一人一台の体制にした。皆でファイルとスケジュール・電話帳・現場報告を共有するようにした。

それまでは、大工や手伝いさんの手配は、手配する担当者が担っていた。感情的な問題も絡んで、結構、大変だったのだが、 サイボウズというグループウエアーがその役目を担うようになり、スムーズに動き出した。 お互いのスケジュールを合わせることがやりやすくなった。現場からの報告も、皆で見て、意見し合うようになった。

そうやって、一年間ほどが事もなく過ぎて行ったある日の朝、出勤してみるとサーバーが動かなくなっていた。血の気がさっとひいた。 ハッカーにやられたのだった。勿論、ハッカーという存在を聞いてはいたのだが、それは大きなシステムに侵入する人たちのことだと思っていた。 もう、会社のサーバーは私の手に負えるような状態ではなかった。

システムエンジニアのプロに依頼して新たなシステムを構築することになった。そして、そのシステムは3年間ほど、快適に動いた。しかし、 それが、先週の金曜日の朝の出来事へと・・・・・・・。


金曜日の当日はデーターを失ってしまったという、猛烈な喪失感が私を襲った。寝床についても、うなされて夜中に目が覚めた。 うなされることによって何だかわからない感情と思考を吐き出した。

土曜日の朝、建築は「現場」だ・・・・。 デジタルなコミュニケーションよりフェースtoフェースのコミュニケーションの方がもっと大切な事なのだ・・・・・。データよりも「人」 の方がもっともっと大切なのだ・・・・。と、自分や社員に言い聞かせて、気を取り直すことにした。そういった「現場」 での物事をスムーズにするように助け、その過程を魅力的なものにまで高めてくれるツールがデジタルなコミュニュケーションなのだ・・・・。 と。

それにしても、バックアップとかメンテナンスという行動。
「転ばぬ先の杖」「善は急げ」「後悔先に立たず」なんていう諺。
それらの事がじわ~っと身に染みてきた。
きっと家に関しても同じ事が言えるのだ・・・・・。

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2004年08月02日

朝の地下鉄

数年ぶりに、朝のラッシュアワーの地下鉄に乗った。私は会社のすぐ近くに住んでいるため普段の通勤時間は歩いて2分ほどなのだが、 その日は健康診断があった。

地下鉄千日前線の小路駅から谷町6丁目で谷町線に乗り換えるため、エスカレータを左側に乗って駆け上がった。 ちょうど具合よく乗り換えの電車が来ていた。エスカレータを急いで昇りながら、先日、関東の友人と話をした時に話題に出た、 東京ではエスカレータで急ぐ人は右側だが大阪は左側に乗るのはどうして・・・。というようなことをチラッと思い出しながら、 急いで電車に飛び乗った。

ほっとして、あたりを見渡すと周りは女性だらけだった。なんで今日は女性がこんなに多いのかと思った。 そしてなぜが私に向く女の人の視線が変な雰囲気だった。今にして思えば確かに間抜けだった。間髪を入れずにアナウンスがあった 「3両目の車両は女性専用車両に・・・・・・」頭が思考するよりも体の方が素早く反応した。急いでプラットホームに飛び出した。 背中の女性の冷ややかな視線をふりほどきながら、後ろの車両に向けて駆けだした。その間、頭は体の反応速度に付いていけずに、 ぐるぐると回転していた。「えーと、今、乗ってた、車両は、何両目やったかな・・。」「うん、女性専用車両・・・?それ何・・・?」 と。 一瞬の出来事なのだがプラットホームを走りながらも頭はこの事態を何とか解釈しようとしていた。扉が閉まりそうになるのを手でくい止めて、 何とか後ろの車両にすべり込んだ。目の前で扉がプシューと閉まった。それこそ、ほっとした。

電車が動き出し、暫くして、冷静になったころ、女性専用車両というのが出来た事を思い出し、ようやく事態を理解した。 それと同時に汗がじわ~っと吹き出してきた。暑さのせいでも、走ったせいだけでもなかった。 あのまま扉が閉まって女性専用車両に乗ったまま次の駅まで行くことになっていたら・・・・駅に着くまでの間、 周りの女性の視線にどう耐えていたのだろうか・・・・と・・・・・。そう考えるとちょっと滑稽で可笑しかった。 真っ暗な地下鉄の車両の扉に映し出される自分の顔がにやけていた。

晩ご飯の時、奥方にこの話をすると、「うわーーかっこわるぅーー」とばっさりと切られた。

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