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2016年09月25日

瓦コースターな夜

それにしても、よく雨が降る週だ。今日の日曜日は「まちのえんがわ」で、瓦コースターワークショップがあり、瓦の粘土で作られたコースターに模様を付ける作業をし、それを淡路の瓦の窯元の大栄窯業の道上さんの会社に持って帰ってもらい、瓦を燻す時の釜にコースターを一緒に入れることで、いぶし銀の瓦コースターが出来るというわけ。いぶし瓦の特性で、水をこぼしても、瞬時に撥水する優れもので、昨年に引き続き2回目なのだけれど、今年は、木村工務店用に8個のコースターを製作したので、接客の時にそのコースターが登場するかもしれない。

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↑ ミチカミさんによるレクチャーで、瓦コースターに使う土は200万年前の土だそうだ。


↑ 「200万年前の土と向き合うと、みなさん無言になられるんです」と講師のミチカミさん。確かに皆さん黙々と作業をしている。

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↑ 木村工務店のとんちゃんとタカノリと私で製作した木村工務店のロゴマークコースター。

ワークショップ終了後に、瓦焼きBARなるものを催して、木村工務店の瓦業者で操業100周年の瓦虎工業の社長の息子さんの渡辺くんがマスターとなって、淡路のイノブタを炭火で熱せられた瓦の上で焼くという料理で、淡路産のタマネギもあり、とっても美味しい焼け具合で、瓦焼きを食べるためだけに来たお客さんもいて、四方山話で夜遅くまで盛り上がった。

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淡路島の大栄窯業のミチカミさんと雑談をしていると、今年の暑さは異常でしたね。瓦のベテランの職人さんも何十年も仕事をしていて、初めて熱中症を体験したらしく、熱中症って、こんな感じになるんやな。って言ってはりました。昔の瓦の職人さんは、夏の暑い日は、朝の5時頃から仕事して、昼休みの後は暫く休んで、3時や4時頃からまた始めて、夜の7時頃まで働いたりしていましたね。っと。

確かに、今という時代性は、昔のように、職人さんの仕事のやり安さを中心とするような世の中ではなく、生活する住民の方々が主導権を持っていて、また、そうあってしかるべきで、それに伴い、さまざまな工法の簡易化や材料の工業化が進んできて、スピーディーな建築になってきたが、昔ながらの瓦の施工や、壁の左官仕事や、大工さんが無垢材を扱い、木製建具を使うとか、そんなのは、気象条件や材料の特性に大きく左右され、依然として時間も手間もかかり、おもいのほか仕事が進まないのが、今以て同じで、ただ、そういう要望への仕事には、お客さんへの真摯な態度と共に、職人さんや現場監督にも新たな工夫が求められている時代であるのだと、模索と反省を繰り返している現状。

今、うちの家は、息子夫婦と同居中で、気付くと、家族の主導権は完全に「マゴ」が握っていて、本日は、うちの家族の瓦コースターを製作することにしたが、思い浮かんだコースターのデザインが、マゴの手形であって、はてさて、こんな「私」でエエのかどうか...と考えてみたりもするわけで、連続した熱帯夜とか、現在進行形の長雨とかが、さまざまな思考を巻き起こす瓦コースターな夜だった。
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2016年09月18日

構想力

早朝、薄らとした目覚めと共に、耳元に雨音が聞こえてきて、雨の連休だな。自転車もダメだな。とおもいながら、再びぐっすりと眠って、目が覚めたら午前8時だった。朝の8時で、ぐっすり眠った感があるのも加齢のせいかもしれないし、そういえば、先週に、人間ドックで胃カメラやCT検査があり、その送られてきた検査結果表を見るときのドキドキ感が、歳と共に微妙に増してくるコトに、加齢を感じたりして....。

ようやく今年のあの蒸し暑い夏が終わり、デッキに出て、椅子に座って、心地良い風が吹くのを感じるのが楽しい季節になって、雨音を聴きながら、デッキで、家の隙間から見える長屋と、道路と、どんよりとした曇り空を静かに座って眺めていると...、そうそう、最近、その隙間から見えていた倉庫のような建物が壊されて、300坪ほどの土地が空いたままになっていて、子供の頃は、その倉庫が建て替えられる前の空き工場で、ブロック塀を乗り越え忍こんで、探検ごっこなどと称して遊んだものだが、今やそんなことが許される大らかな時代でもなく...、ま、そんな事より、周辺の空き長屋もどんどん増えてきた。

最近の日経アーキテクチュアの松村教授という方の記事に

まちに眠る圧倒的な空間資源を可視化する術を持つ。どれだけの空き家、空きビル、空いているスペースがあるのかを鮮やかに可視化できれば、みんなで具体的に考え始める手掛かりとなる。それは、パッと見ただけで「利用の構想力」を刺激するものとなり得る

確かに、まちに眠る空間資源をどのように利用すれば良いのか「利用の構想力」を皆で一緒に考える時代がやってきているのだろうし、それと共に、そういうのを不動産情報としてだけでなく、「まちに眠る空間資源」として可視化し共有する作業とその窓口が必要とされていているのだろう。「まちのえんがわ」でも、生野区の行政の方々と共に、そんな可視化の取り組みを始めているが、それはそれでなかなかタイヘン。

いま、木造2階建てを平屋にする減築工事に取り組んでいて、それが、想像してた以上にタイヘンな作業で、大工さんの工事のやり方としての「構想力」に頼り切っている状況。もともとは、空き部屋となった2階を放置して、後々の維持管理費や光熱費の増大を招くより、1階をリフォームするこの際に、減築し、もう少しコンパクトに住んで、温熱環境的にも快適な家にしていこうという計画で、それに、もし家族が増えて部屋が足りなくなっても周辺に空き家がいっぱいあるではないか.....と。

デッキで雨音を聴きながらそんなコトを考えて、ふと本棚に向かい、何気なく本を手にとったのが、井伏鱒二の「鞆ノ津茶会記」で、こんな本いつ買ったのだっけ。きっと、コトバノイエの加藤さんの古本で、木村家本舗の時に残ったやつだったのか.....。そうそう、今年も昨年に引き続き、木村家減築工事中のため、コトバノイエの加藤さんと一緒に続けてきた木村家本舗の開催は中止となり、来年こそは是非復活したいと願っているのだけれど....。それにしても、「装丁の美しい本」が、コトバノイエにあり、そのコトバノイエの装丁に拘った本が、「まちのえんがわ」にも並んでいて、そしてそのほんの一部が木村家の本棚にも並んでいるわけで、数年、本棚に飾られていて、開いた事もなかった本にふと手を伸ばした

つい先日の「旅的」で、鞆の浦へ旅をし、ここ3年ほどは毎年、本に出てくる大三島や大崎下島や弓削島や因島を自転車で巡っていて、何よりもこのブログを書く前にテレビで見ている真田丸に出てくる戦国武将がタムリーに登場し、そういえば安国寺の恵瓊は鞆の浦だったし、とあらためてその周辺の景色を想い浮かべながら読み、その上、昨年の冬に初めての茶会で夜噺の茶事を体験して、茶事という出来事に外国人のような気分でカルチャーショックを受けたこともあり、そんな複層的な潜在意識が、この本を手に取らせ、綺麗な装丁からわざわざ本を抜き出したのだろう。

海といえば、海水浴やマリンスポーツや釣りしか連想しなかったが、しまなみ海道にロードバイクで数年間通い続けながら瀬戸内の海を見ているうちに、潮の流れというものを知り、かつては航海のために潮待ちがあって、潮待ちの港町として発展した、大崎下島の御手洗には、その独特の雰囲気が気に入って自転車で2度訪問し、同じようについ先日、潮待ちの港町、鞆の浦にも独特の魅力があることを知った。潮の流れが引き起こす船と人の往来と宿泊が瀬戸内の文化を造ってきたらしく、その瀬戸内海の行き止まり的な大坂で、豊臣秀吉が活躍し、そのさまざまな戦国時代の出来事が、瀬戸内の潮待ちの港まち鞆の浦の茶事という視点から描かれていて、井伏鱒二の構想力の面白さに引き込まれながら、雨のお陰もあって、家から一歩も出ずに読み切ってしまった。

真田の視点から描く戦国時代も三谷幸喜の構想力なのだろうし、関ヶ原の戦闘シーンを見せずに、サスケの報告だけで、ほんの一瞬に終わらせたとか...。確かに、今までからあったコトやモノやスペースを新たな構想力で、編集し、利用していく時代なんだとおもえた雨の連休の日曜日だった。

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2016年09月11日

まちのえんがわワークショップ=体験型講座+サムシングエルス

「ワークショップ」というコトバで、「私」の脳の中で、すぐに連想したり、関連付けするのは、JAZZミュージシャンのチャールズ・ミンガスが、ジャズワークショップというコトバを使って製作した1960年前後の一連のレコードで、なぜか、20歳代の「私」に、独特の印象を残して、ま、こんなの、どーでもエエ話なんですけど、その実態がなんであったのか、読んで学んだ訳でもなく、ただ、そういうワークショップというコトバのもとに、生み出されたレコードの持つ独特の雰囲気が、何か、ちょっと気になる「印象」として、私の「印象の残存物」となって、置き去りになっていた。

「まちのえんがわ」を始める時に、それと同時に、「ワークショップ」も始めるコトが、必要だと、ある何人かのひととのコミュニケーションの中から生まれてきて、で、その時に、にわかにその「残存物」が蘇ってきた。そうそう、ミンガスジャズワークショップのようなワークショップをね。と、脳の中では呟いていたが、というものの、ただの雰囲気雰囲気だけで、その実態を全くな~んにも理解していなかったので、とりあえず、あの時の印象の残存物を加味した、「まちのえんがわワークショップ=体験型講座+サムシングエルス」として、スタートするコトになった。

「建築」を生業とするので、それに関連するワークショップをメインにするしか経験値がなく、それにしても、毎回のワークショップが、ひとつのライブ盤のレコードアルバムのようになって欲しいという、あの印象の残存物もあり、それで、全体的なテーマを「職人さんにふれる」「材料とのコミュニケーションを体験する」「ものづくりの心に気付く」なんていう、それらしいテーマを見つけ出して、そういうコトに関連する、さまざまなワークショップを月1回のペースで続けていくコトになった。

ちなみに、材料とのコミュニケーションは、村松貞次郎の大工道具の歴史から引用してきたコトバで、「材料と対話をし、それをモノにするための、その対話の通訳者になってくれるのが、道具である」という文章に接して、あらためて、職人さんというのは、道具を使って、材料とコミュニケーションをするひとなんだと、おもえたコトが、ワークショップを続ける原動力のひとつになっていて、「職人的なひと」が中心になったワークショップを開催することにしている。

で、今日は、「まちのえんがわ」で、参加者が3人だけの板金ワークショップ特別編を開催することになり、教える職人さんも3人で、いわば、マンツーマン状態の特殊なワークショップとなって、コトの始まりは、夜間の工業高校の女性の先生が、ホームページ上の板金ワークショップに興味を持って問い合わせを下さり、生徒に、ものづくりの体験として、板金のチリトリなど教えようとしているが、なかなかうまくいかないので、一度、板金ワークショップに参加して、その体験をもとに、何をどのように造れば良いのか、その教え方も考えたいとのコトだった。

毎回板金ワークショップをやってくれている、うちの板金屋さんの松倉商店のマツクラくんに、その旨を伝えると、快諾してくれて、学校まで教えに行きますよ!という勢いを制止ながら、彼が所属する「東成錻力職人(ヒガシナリブリキショクニン)」という、板金屋さんのボランティア集団が中心となって、教師のためのワークショップを初めて開催するコトになった。銅板の鶴製作、トタンチリトリ製作、トタンペンシル立て、という盛りだくさんの内容を詰め込んで、さまざまな板金用のプロの道具を使ったワークショップだった。

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スポーツを通じて学ぶコトがあるように、ものづくりを通じても、生きるためのコツのようなものを学んだりするわけで、私の小学生の頃は、プラモデルが流行っていたので、プラモデル製作や、科学と学習という雑誌にある製作物などから、製作図面の見方や、ものを造る順序や、道具の使い方や、すぐには上手に出来ないコトや、さまざまなコツのようなものや、なんだかんだ。そんな体験が、「私」の一部になっているとおもうのだけれど、スポーツと同じ位置で、ものづくりの授業というのがあっても良さそうにおもえた今日のワークショップだった。

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2016年09月04日

シークエンス

日曜日の朝。台風の影響で、雨が降るのかとおもっていたら、意外とエエ天気。生駒山に向けて、自転車を走らせると、朝日が直接目に入るぐらいの高さに差し込んできて、とっても眩しいが、日の出のエネルギーを感じる朝だった。

「まちのえんがわ」の南側の道は、東西に一直線で、東を向くと、長屋と長屋の隙間に、生駒山が見える。朝6時頃、朝日が、その道に、低く直線的に差し込むと、夏から秋に季節が移り変わる気配も差し込んできて、なんとなく憂いのようなものを感じる季節の気配。ランニングや自転車に乗るまでは、そんな事に気付かなかったが、朝の運動を長く続けてくると、季節の移り変わりを自転車で移動しながら、次々と見えてくる景観の連続性と変化で、感じるのが面白く、それを建築では、「シークエンス」というのだろうが、そんなのを建築的な視点で楽しみながらライドしたりする。

本日は、住宅相談会の日で、午前中のAさんは、計画案に対する概算見積を提示する日だったが、母の納骨の日と重なり、挨拶だけを済ませて、谷町筋にある鳳林寺のお墓に向かう。ちなみに、この鳳林寺のホームページには・・・・

元和元年(1615年)五月大坂夏の陣のとき、真田幸村のために茶臼山の本陣を追われた徳川家康公は現在の谷町筋あたりに逃げたといわれております。山の記録によれば「元和元年夏大坂の役徳川家康公が来山され休息をしていかれた」とあります。両者を勘案すれば家康公は真田幸村の巧妙かつ果敢な攻撃にあって、逃げ道を失い、わずかの従者に守られ敵陣に迷い込み、山に隠れて難を避けたものと思われます。

現在の住職のお話には・・・

時は慶長20年(1615年)、大坂夏の陣。真田幸村に追われ當寺に及んで来られたのは・・何と、徳川家康公。住職は、人の命に敵も味方も無いとの想いから、家康公をかくまいました。

窮地を免れた家康公は、二代将軍秀忠公に「大坂城再建の折にはその高さ鳳林寺の本堂の高さを越えぬよう。」お言葉を残されたとのことです。再建された大坂城は本堂の高さを超えぬように建造されたようです。

その逸話の信ぴょう性を高めるような事実があります。當寺は夏の陣の後、その年に家康公より摂津一国僧録の朱印を授けて頂いております。又、米倉丹後守をはじめとする4人の大坂城代の御墓が、現存しております。もし、家康公が真田幸村から逃れていなければ・・日本の歴史から江戸時代は消えていたかもしれません。

祖父のお墓から曹洞宗の鳳林寺さんのお世話になっていて、祖母も父もそして母もここに永眠することになって、最近は、ちょっとした営繕工事もさせていただいているのだけれど、それにしても、この日曜日のブログを書く前には、NHKの真田丸を楽しみに観ていて、そんな意味でも、とってもタイムリーな話なのだが、ここのお寺が、こんな由緒があると知ったのは、ほんの数分前の出来事で、納骨の後の住職さんとの世間話から、あらためてこのお寺に興味を持ち、先ほどはじめて鳳林寺のホームページを開いて知る事になった次第。暑い日差しに蒸し蒸しした空気の中で汗を流しての納骨式と、鳳林寺のクーラーが効いた会館での冷たいお茶と住職さんとの会話。

納骨の後、兄姉家族で、近くのシェラトン都ホテルのレストランで昼食をした時、駐車場を移動する電動バスの運転手さんが、今日は、黒い服を着て、何か・・・、だったのですか...とさりげなく世間話のように、ぼくとつとした口調でコトバを発するので、近くのお寺で母の納骨をしたあと、皆で食事に来た事を静かな声で返すと、このあたりは、お寺が多いですからね。故人はそういうコトを喜ぶといいますもんねぇ・・・。というコトバと共にバス停に着いた。

午後からのBさんの打ち合わせには、40分ほど遅れて参加したが、数ヶ月前にお越しになった方で、成人した子供さんお二人とご両親の大人4人が住む延べ床が29坪ほどの住宅の計画で、ま、シェアーハウスのような感じで、紆余曲折しながら、お父さんが書かれたプランをお持ちになって、それを建築的に成立するように、外観や採光や収納やディテールを考えるのが、私たちの求められている事で、そんなのも工務店としての大切な役目でもある。

午後3時からのCさんは、若いご夫妻で、初めて、弊社にお越しになり、1年半ほど、高槻で新築住宅の土地を探していたが、うまく見つからず、それに、家を相談しながら、ちょっとしたディテールなんかを一緒に考えて家づくりをしたいというご希望で、建築家のセンスと設計にお任せするスタイルやハウスメーカーやハウスメーカー的工務店が提案する住宅を買うスタイルもあり、注文住宅と云いながらもひとつの決められたコードから逸脱が出来ない注文住宅のスタイルも多いが、元来、工務店的な家づくりのスタイルは、お客さんが好む家のモードを汲み取って、それに相応しい建築的コードをチョイスし、適応し、編集作業するのが、モーダルコーダルな家づくりのひとつの建築的スタイルで、その逆の建築的コードが優先のお客さんもあり、そんな時は、お客さんの好みのモードを引き出していく作業が大切だったりして、そんな家づくりが木村工務店スタイルなんだとおもう。

先週今週とメンテナンスの対応でお叱りを頂戴し、社内体制も含めて、反省する週でもあったが、さて、今回のこのブログ、シークエンス的なブログとなったのかどうか....。

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