(株)木村工務店(大阪市生野区)新築 大規模リフォーム 木造 自然素材 建築家との協働

施主に喜んでもらう喜び

建築で人と職人をつなぐ

建築で人とライフスタイルをつなぐ

建築で人とビジネスをつなぐ

建築で人とものづくりをつなぐ

建築で人とまちをつなぐ

建築で人と地球環境をつなぐ

人々に必要とされる工務店

地域社会に必要とされる工務店

日本に必要とされる工務店

世界に必要とされる工務店

地球環境に必要とされる工務店


「工務店」とは「施主」に「貢献」するために「建築」に関する

「専門知識」の「適用」と「働き」に「責任」をもって

「設計」と「施工」ができる「ものづくり」の「チーム」である

正しい事の原理原則をみきわめ

何事もキチンとすること

何事も誠意をこめ魂を入れて事に当たろうとすれば

丁寧親切に帰着する

ものづくり·人付き合いの原点でもある



社  名
  株式会社 木村工務店
所在地
  大阪市生野区小路東2丁目20番25号
創  業
  昭和12年(1937年)8月
会社設立
  昭和24年(1949年)4月2日
資本金
  24,000,000円
代表者
  代表取締役社長 木村貴一
建設業許可
  大阪府知事許可(搬-26)第14619号
許可の種類
  建築工事業・大工工事業・タイル、れんが工事業・内装仕上工事業
建築士事務所登録
  株式会社木村工務店1級建築士事務所
  大阪府知事登録(ヌ)5348号
事業内容
  各種建築工事の総合請負
  企画・設計・監理
  建築資材の販売施工
関連会社
  セルドム技建株式会社


  昭和12年 8月  木村精一が現地にて建築請負業の個人営業を開始
  昭和10年代  木造長屋建築・文化住宅を多数施工
  昭和18年10月  戦時中により爆薬収納箱の軍需指定工場となる
  昭和20年 9月  終戦により建築請負業を再開
  昭和24年 4月    個人営業を組織変更し株式会社木村工務店を設立
 資本金50万円、代表取締役に木村精一が就任
  昭和20年代    大阪市の工事を受注し、
 木造校舎・木造作業場・復興住宅を多数施工
  昭和27年 8月  本社事務所及び工場を増改築し木工機器を増設。
  昭和30年代    大阪市の工事を主力に
  RCの学校建築等を多数施工
  昭和33年 5月  専務取締役に木村正一が就任
 民間の鉄骨造・RC造の工場・マンション・住宅を施工
  昭和38年11月  ALCのシポレックス㈱指定責任施工店となり
 軽量気泡コンクリート「シポレックス」の施工と販売を開始
  昭和40年代    官公庁の工事から民間の工場建設及び
 住宅・マンション・店舗を主力に施工
  昭和44年 4月  資本金を600万円に増資
  昭和44年12月  営業事業所の増築拡充工事完成
  昭和50年代    民間工事100%で受注し、
 商業施設・住宅・工場を施工
  昭和55年 9月  資本金を1,200万円に増資
  昭和61年 2月  旭硝子関西建材㈱と特約店契約を締結
  昭和61年 4月  建材部門を分離独立しセルドム技建株式会社を設立し
 代表取締役に木村正一が就任、建築資材の販売施工に当たる
  昭和63年 1月  代表取締役社長に木村正一が取締役会長に木村精一が就任
  平成  民間工事100%で、
 住宅から工場・マンション・神社仏閣まで幅広く手掛ける
  平成 3年 5月  本社新社屋増改築工事完成、
 事務及び設計のOA化に着手する
  平成 5年 4月   専務取締役に木村貴一が就任
  平成 6年10月  取締役会長 木村精一が死去
  平成10年代     自然素材の可能性を追求した木造住宅を手がける
 官公庁工事の受注を再開する
  平成10年 8月   ホームページを公開する
  平成10年12月  IT化に着手しサイボウズを導入する
  平成12年 4月  パソコンを一人一台体制とする
  平成12年 5月  資本金を2,400万円に増資

  平成14年 7月

 木村貴一がテレビ番組「大改造劇的ビフォーアフター」に
  匠として出演する
  平成15年代  注文住宅・リフォーム・建築家と協働を主力に受注する
  平成18年 6月  代表取締役会長に木村正一が就任
 代表取締役社長に木村貴一が就任
  平成20年12月  官公庁工事の受注を休止し民間工事100%で受注する
  平成21年 7月  木村工務店加工場で1年間、現場で1年間かけて清見原神社造営工事が完成する
  平成23年12月  木村工務店1階に企業が持つコミュニティスペースとしての縁側
 「まちのえんがわ」をオープンする
  平成26年 4月  代表取締役会長木村正一が死去
  平成27年  リフォーム・新築注文住宅・建築家との協働を主力に
 店舗・工場事務所・集合住宅を少数手がける


創業者、木村精一


 明治44年2月、現在の三重県一志郡美杉村小西にて誕生幼児にして父と死別のため母の姻戚をたどって
現在の愛知県碧南市新川に移住する。

大正13年3月


 新川小学校卒業、碧南市大浜「大清商店村上家」(建築と木材業)にて 大工見習いとして弟子入り、修行に励む。

昭和の始め頃の普請方の出で立ち
(写真右側が創業者の木村精一)

小学校を卒業して、大工の頭領に弟子入りしてから5~6年
年季が明けて待望の「職人」となると、こんな服装ができる
町屋大工の典型的なユニフォーム

昭和7年

 年季明け後も大清商店にて勤務していたが、徴兵検査のため出生地の叔父の家に身を寄せる。
徴兵検査の結果兵役猶予になったため、近郷近在の住宅の新築や改造、寺院の改修等に従事する。

昭和8年


 ある日、寺の住職が「貴方は貴方の将来のために、西の方角へ行って仕事をしなさい。」と言うご託宣で
一念発起、大阪への旅立ちを決意、現在の大阪市生野区内、赤尾商店(建築建売業者)に勤務する事になる。
 赤尾商店では、当時流行の長屋の借家建築に携わり、土地手当、建築、販売、引渡と一貫したノウハウを会得し、 更に趣向を凝らした建物で人気を博した。と伝えられている。

昭和12年8月


 惜しまれながらも赤尾商店を退社。
現在の大阪市生野区小路東2丁目にて「建築業木村商店」を設立する。
当時のこの付近は大阪市の東部田園地帯で、田んぼをコークスで埋め立てて借家を建て販売する工事が多かったと聞く。
 船場や久宝寺町の旦那さんが商売の浮き銭で副業として、収益の上がる長屋を市内の近郊で購入するのが旦那のステイタスでもあったようだ。

ここに株式会社木村工務店の創業の1ページが開かれた
昭和15年頃に当社が建築した1ランク上の4軒長屋の借家住宅と若いおかみさん達

昭和16年頃


 長屋借家の建売りをベースに、購入して戴いた旦那衆の口利きで 浪花学園、錦城商業学校(今の近大付属高校)など 木造大型学校建築や店舗、工場、住宅へと業容が拡大して行った。

昭和18年頃


 第2次世界大戦が日増しに熾烈化してきた。
大阪市内も建物の強制疎開で 強制解体が始まり、 当方の作業場も木工機を利用して陸軍の軍需工場となり 機雷爆薬の箱を作る事になり、事実上の休業状態となった。

更に昭和19年には


 木村精一にも召集令状が来て、陸軍工兵隊に入隊したので、 自分の借家を売却し家族は、出生地である三重県八知村に疎開した。

昭和20年8月


 終戦、直ちに除隊され帰阪した。
幸いにも自宅、作業場や周辺の家屋等は、空襲による戦災を免れたため、 戦災復旧工事に取りかかることが出来たが、 食料もなく、資材もなく、資金もなく、職人も揃わず、しかも物価統制令をはじめあらゆる規制の網が張られて、 復興工事は遅々として進展を見なかった。

復興の足がかり


 工場の端材、古木等で燃料用の薪を作り店先に並べて販売した時期もあったそうで、 飛ぶように売れたと聞いている。
 衣食住全てが不足、日用品で石鹸も洗濯用も洗顔用も入手困難であった、 これに目をつけた近所の人が、大鋸屑入りの代用石鹸を作って大儲けをした。
増産のための工場の新築依頼が来た。
 短工期、低価格で工事を完成したので、次々と工場建築先を紹介して戴いた。
木造平屋建てモルタル塗り、小屋は合掌組でセメント瓦葺きが半ば規格物。

 集金は10円札を数えて石炭箱に詰め込み上から風呂敷をかぶせて自転車の荷台に積んで帰宅。銀行員が来て枚数をチェックすると10枚前後の過不足があった。
そらそうでしょう、普通でも5千枚(金額で5万円)と言う枚数で数え切れないのも事実で「100枚単位を積み重ねて高さを合わせた」とも伝わっている。

 昭和22年の「※1「建築物竣工検査済證」は石鹸工場の検査済証と思われる 。

※1「建築物竣工検査證」
昭和二十二年六月二十四日建五五八号とある

会社設立


 工場建築に続いて、復興住宅の新築、増改造の需要が起きててきた。
住宅新築の際も、戦後復興住宅規制があり延べ坪18坪以下となっていた。
住宅金融公庫の発足と融資も始まったが延べ床面積18坪以下について融資対象となっていた。
軍人の除隊、海外からの引揚げ等で本土の人口は増加の一途をたどり戦後のベビーブムが始まった。
 戦災で焼失荒廃した小学校は校庭に仮設校舎を建てて二部授業の状態であり、さらに学制改革が持ち上がり中学校の新設が始まる様相となってきた。

 大阪市の指名業者となり学校建設の請負をすべく営業を行い、 経営基盤を整備強化するため個人商店を昭和24年4月株式会社に組織変更。

 社名を「株式会社 木村工務店」として木村精一が初代社長に就任した 。

木材業許可書 昭和22年4月14日
木材業者登録票 昭和23年5月15日

学校建築


 昭和24年 大阪市より木造2階建て校舎の新築を受注施工することになった。
片江小学校をはじめ「深江、神路、啓発、御幸森、田島、東小路、東中川、宝栄、生江・・・木造校舎」の建設は20棟を超えている。
 一方では新制中学校の開校と校舎の鉄筋コンクリート化が始まり、大阪市では昭和27年後半からRC造3階建ての校舎建築が始まることになる。

昭和26年 大阪市の発注による生野中学校新築工事の現場監督

背後には型枠加工の下小屋が建てられている
「戦後最も大規模なRC造の校舎建築であった」

運動施設の建築


 昭和26年7月
大阪市で「日独対抗陸上競技大会」が、「大阪市営市岡運動場」で開催されることになり、運動場の整備工事を同年4月に受注した。
従来のRC造スタンド下に更衣室、貴賓室、シャワー室、運営事務室等の整備改装工事で、工期は2ヶ月。

 現場に行ってみるとルンペンの寝床。
それも50人~100人も不法侵入していたから驚いた。
早速地元の親分にお願いして追っ払ったが夜になると舞い戻ってくる。
それではと、近所で飼っていた一寸凶暴な犬(S君)をお借りして1週間放し飼いにしたら、さすがの浮浪者も寄りつかなくなった。

工事は昼夜を問わずの人界戦術、折り悪く梅雨時で連日の降雨に外構工事は難航を極めたがやっとの思いで期日までに完成した。
当時の「中井光次」大阪市長から々にお褒めの言葉を賜り、工事実績として以後の大阪市の受注に大いに貢献した我が社の出世作であった。
当初契約額は440万円だったが、完成してみれば400万円余の追加工事があった。

 完成した煉瓦色のアンツーカーのトラック400mを自前のスパイクで二人で走ったときの爽快さはいまだに感触として残っている。

「第一回 日独対抗陸上競技大会」は盛会裏に終了した。 運動場は、その後「長居競技場」に集約され、跡地は「大阪国際見本市会場」となり、更に現在は「大阪市立中央体育館と大阪プール」に変身している

長居競馬場


 昭和27年5月から現在の「長居競技場」の前身・「長居競馬場」のメインスタンドをRC造約150m増設する工事を大阪市より受注した。
 隣接して競輪場、競馬場はオートバイレース場にも使用され連日のように何かの競走が開催されていた。 世間の景気は、今ひとつで市民は勢いづいたインフレに追いつけず、ギャンブルに走る人の山、都会には遊び人も沢山いるもんだなーと感心した。
 今も昔もギャンブルに群がる好き者の数は変わっていない様です。
 当時の資材運搬の手段は、馬力車やリヤカー、自転車の横付車、大八車なぞであった。積荷は馬力で1屯余りか、夜明けから夜半まで2~3回往復していた。
 ある日、馬力を引っ張って長居競馬場の現場に来た青年、ついでに買った100円の馬券が、なんと1万2千円と大当たり。喜んだその男、帽子、背広に革靴まで購入、余った金で二人して飛田遊郭で1泊して帰ってきた。ちなみに当時の高卒の初任給が4~5千円の時代であった。その人は、工事期間中の給与の大半をつぎ込んだが、「大海に魚一匹」というあり様だった。しかし、以来40年間、競馬にぞっこん入れ込んで、いまだに場券を買うのが趣味なそうな。方や創業者木村精一のように馬と他人が乗って走るもんは当てにならんと、ギャンブルに手を出さん人もいます。
-人生悲喜こもごも-
昭和27年「生野中学校」の感謝状

最初の鉄筋コンクリート建築


 一方では新制中学校の開校と校舎の鉄筋コンクリート化が始まり、大阪市では戦後初の鉄筋コンクリート造校舎の建設を、市立「文の里中学校」と「生野中学校」の2校で試されることとなり、昭和26年10月弊社は「生野中学校」の受注に成功した。
 戦後最大の鉄筋コンクリート校舎建築と騒がれ、建築業界からも注目されていた工事でもあった。
 当社としても本格的な鉄筋コンクリート建築についての経歴はなかったが、受注に結びついたのは先の「市岡運動場」の工事に対する意気込みが功を奏したと思っている。
 鉄筋コンクリート建築に一歩足を踏み込むことが出来た当社の記念すべき建築でもあった。
以後小、中学校のRC造校舎建築を数多く施工することが出来た。
昭和29年秋「大阪市立小路小学校」

本社・工場の整備


 朝鮮動乱を契機として大阪の街も目に見えて活況を呈してきた。
終戦直後のバラック建築から本建築に建て替える工事の受注が増加してきた。
 運動具店、パン工場と店舗、飲食店や喫茶店、木造のアパートや文化住宅、etc民間はやっぱり価格の安い、工期の早い木造が主体であった。

昭和27年春


 建築の生産性を考慮し少しでも現場作業を減らすことが出来れば、工期を短縮し、品質管理が出来ると、現在地にあった倉庫を工場として新築することにした。
 戦前の丸鋸は台車付帯鋸になり、1本の丸太から1軒の造作材を取り揃えることも可能になった。
プレナー、研磨機も役に立った、三方プレナーは特に威力を発揮した。縁甲板をフローリングに加工する、額縁、水垂加工、造作材の加工にフル稼働した。
近郷近在の材木屋さんがトラックや馬力に満載で賃加工に来てくれた。

木造2階建の事務所も新築した。
新築した木造2階建事務所
昭和30年頃の事務所

机にはそろばん、Gペン、カーボン紙と罫紙など
製図板の上にはT定規と三角定規、雲形定規や分度器、烏口などが必需品

工場の木造小屋組はスパン約8間(約14m)の木造トラスであった。
この木造トラスは市内で現存する数少ない木造トラスとなり改築することに躊躇しているのである。

現存するスパン約8間(約14m)の木造トラス

RC造住宅とスチールサッシ


 昭和29年頃1階がパーマ店の3階建て住宅を建てたいが南区坂町の角地、火災は2度と遭いたくないので鉄筋で燃えないように、との注文を受ける。
鉄筋コンクリートの建築は自信満々、窓枠も初めてスチールサッシを使用する事とした。諏訪町のセパレータとボールトの金物屋が家で作ります。と寸分間違いのないサッシを製作取り付けてくれた。諏訪工業の第1号作品だった。

 同じ頃、大阪市某局の局長さんが、「大学の同級生が中道で眼科医院を新築したいが、鉄筋の2階建てと言ったら工事してくれるところがないそうで、君んとこでたのむわ」と何れも約30坪の土地。工事は無事完成したが、狭小地でのRC造建築の難しさは、今後の課題となった。

 当時は生コンなんて有りません
 現場内(時には建物内)にミキサー据えタワー建て、砂、バラス、袋入りセメントを搬入して調合練り上げるのです。
-物も労力も現代では考えも及ばない時代でした-

昭和30年 地元の清見原神社拝殿増築工事を受注

上棟祭神事の職人達の装束姿
( 写真最前列右より6人目が創業者の木村精一、その右隣が設計者、最前列左5名は当社の大工職)

昭和32年 照井会館

●大阪日本橋交差点北側●

関西で初めての総合結婚式場の建設を
施工することになった。

      控室、貸衣装、かつら、着付け室、神殿、写真撮影場、宴会場など、当時全てを兼ね備えた画期的な結婚式場でオープン後は大いに賑わった。
 拾数年後ホテルや式場などが大規模で進出してきたため閉鎖、元の職業である衣装、かつら、パーマ店に戻った。 現在営業している結婚式場も当時とほぼ同形式で運営されている。
 写真は手前の「丸善石油」跡地は現在「三和銀行」

当時の工法も世相も
現在では想像も出来ない事が多々ある。
笑えないエピソードには事欠かない、
当事者たちが真っ青になった話。

 写真に写る「丸善石油」は、勿論ガソリンスタンド、地下には各燃料タンクが設置されてあり、その地下タンクから給油中にガスを抜くパイプが隣接の塀の際に立ち上がっている。バルブが開けてあるので気体はそのパイプからドンドン抜けている。
 その時、現場では鉄骨を繋ぐリベット打ちの作業中、
1階から真っ赤に焼き入れられたリベットを専用の長い柄の鋏の様な道具で、階上拾数㍍に放り投げる、上では鉄板製漏斗の様な道 具でキャッチしボルト穴に突っ込み、空気銃でかしめると奇麗なリベット打ちの出来上がる。
が、この時「真っ赤な灼熱のリベット」をミスキャッチ!
鉄骨に当たり跳ね返った灼熱のリベットは防護ネットを突き破りガソリンスタンドの「ガス抜き用のパイプ」へと一直線・・・。当然、想像通り引火して、3本のパイプから噴火した・・・。

が、これ又 「丸善石油」店主の機敏な対応(即バルブを閉め)で大事に至らなかった。
 しかし、約200m先の消防署の火の見櫓が発見した。
えらいお咎めと、ほんまに良かったなあ、で一件落着。
後年の「地下鉄谷町線」の工事中の大惨事(ガス爆発)も人ごとでは無かったのでした。

 毎日の現場管理・安全管理・整理整頓が
会社組織全体に身に付いた一件でもあった。


「もう一つ思い出すのも莫迦らしいエピソードを・・・・・」

 工事の初め頃のある日、地下室の地業工事でレベル測量中、留守番役を置いて昼食に出かけた。留守番が隣のタバコ屋で煙草を買って戻ってみると・・・。
レベル(水平測定機)が無い。ほんの数分の出来事。
 皆が帰って来た「もしかして、この近くの」と思い、日本橋3丁目の「五階百貨店(百貨店とは名のみで機械工具、道具類の中古販売店が何拾点と並んでいる)」に行ってみた
そこには自社のネーム入りの、しかも1~2時間前まで使っていたレベルがふんぞり返っていた。
禅問答の様な店主とのやり取りの結果、1万数千円で買い戻すことに・・・・・・。
当時の名言「無くなったら五階百貨店にある」……、
確かにありました。
-忘却とは 忘れ去ることなり-

昭和25年6月、朝鮮半島38度線を挟んで朝鮮動乱が始まった。


   街中が軍需景気で一気に活況を呈して、鉄材を始めとする建設資材 も日々急激に値上げが始まった。
さらにこの年の9月にジェーン台風が襲来、近畿地方を総なめにして多大の風害と水害の爪痕を残し復旧作業に取りかかったため資材価格の上昇に拍車をかける状態になった。
 年が明けると建設資材の値上げが一段と激しくなり、材料の調達と請負価格の値上げ交渉に大変な労力を費やすこととなり、建設業協会でも「値増し運動」の実行委員会が発足して活動を開始した。
ならばと政府も遂に「不急不要建築抑制勧告」を発動するに至ったが、上昇気流に乗っかった日本の経済は好況の一途を辿った。

 戦後の大阪復興のため我も我もと建設業者の看板を掲げて競い合ってきたが、留まる所を知らないインフレーションと放漫経営の付けを残 して、建設業者の第一次淘汰が始まった時期でもあった。区内でも我が社より上位の数社も、社友や知人の会社も次々と姿を消して行き、身の毛のよ だつ思いがした。
 「生き残らなければ」、今日と同じ思いである。一方生き残ることが出来た当社の工事量は堅調に右肩上がりを維持、継続して行くことが出来たのである。
 一人一人が技術を持っている「もの造り集団」の強さが身に染みた時期でもあった。
「技あるものに、勝機あり」事業もスポーツもものの基本は同じなのか・・・。

「公認市場」建築


 終戦直後の食糧事情もすごかった。
 今更言うまでもないので省略するが、戦前からの正規の店舗には何一つ商品がないので、家庭の台所に は、闇のルートで仕入れられ路上の闇市で戸板の上に並べられた食料品や日用品がほとんどであった。
 元来大阪の主婦のほとんどは、日常の食料品や雑貨品を近くの商店街と「市場」で買い求めていた。
「市場」は「八百屋から魚屋、肉屋、 惣菜屋、乾物屋、雑貨屋も呉服屋も寿司屋」も、一つの建物の中に専門店が少なくとも25~30店舗、中には50店舗もある大型市場もあって、しかも町の商店街にどこかで接続していて共存共栄を図っていたようで、それが戦災と戦後の混乱で壊滅していたのである。
 贅沢さえ言わなければ、何とか満腹感が得られるようになり、生産者と消費者とのルートも修復、正常化されてきた昭和20年代前半も終わり頃から、庶民待望の「市場復活」の兆しが見えて始めた。

 当社も30年代前半にかけてかなりの数の市場を建築している。
「市場」には、大阪市なぞが運営する「公設市場」と民間人の経営で市町村の認可を受けた「公認市場」があって、現在でも姿、形はスー パー風になっていてもかなりの数が残存している筈である。
 当社が手掛けた「市場」は「公認市場」であった。市場を経営するには、市場に適した土地に、趣向を凝らした建物を建てる。内部は人の流れを考えながら、コンクリートブロック等で区画をする。
各店舗の間口は、1間半とか2間とかで、色んな業種の店舗を募集し、表に面する場所には商店街にない、例えばパン屋さんを呼んでくるとかで他店と差別化して行く。経営者は賃貸し人で借家業だが、入居した店舗は商人組合を組織して、お互いに扶助しながら運営して行く仕組みになっているが、市場経営をやってみたい人を探し条件にかなった土地を手当てし、多様な商人にコネもある、これら一連をプロデュースする一匹狼の様なプロがいた。

 当社は、現在小路公園となっている場所の前身、「公認小路市場」で、火災跡の復旧新築工事が足ががりとなり、衣摺、西郡、河内柏原、天満橋、杉本町市場等々、木造一部2階建てモルタル塗りか、波形の鉄板貼り等で正面は、ある時は重厚に、ある時は瀟洒にカラフルに仕上げたもので あった。
 昭和34年住吉新地に建設した「公認住吉市場」は鉄筋コンクリート2階建て、2階部分は住居で50店舗を越す大規模市場で、市場と言うよりも一大商店街その物であった。
 市場で苦労したものの一つに表店舗の板戸であった。
開口高が高いので板戸は長く、重く、反ったり曲がったり、嵌め込みにくい、雨の日に、特に風の強い日は板戸が煽られて大変だと不満が多く苦慮していた。そんな時に登場してきたのが「軽便シャッター」、この画期的な新商品「軽便シャッター」を早速採用することにし、大変喜んで戴いた。以前の工事の店舗も取り替えることにした。ところが、好事魔多しの例えのごとくこのシャッターとやら、夜中閉店にはどっかで引っかかって降りてこない。電話で怒られるし、メーカーは「夜中の事まで知らんわい」と対応はない。
放っても置けず自転車に乗っては修理に走る、バールでこじてハンマーで叩くと何とか恰好付いたもんである。朝は朝で今度は 「シャッターが上がらんから商売でけん、早う来んかい」とせっつかれる。最後はメーカーと大喧嘩で取引中止。
 その時、東洋シヤッターと出会い、現在もお世話になっている。
「今の軽量シャッターは確実に良くなったもんです。」

 二つ目は、入居店舗の造作工事で各店舗ごとに、打合せ、設計、見積と工事の対応が一時になってしまう。また開店日より工事進捗が早いと、ストップが掛かる。オープン日よりプレーバックして(こんな状態で明後日、本当に開店するんですか?と言う状態に戻す)二日間徹夜してオープン日の朝を迎える。緊張感を持続するためだそうだけど工事屋にはえらい迷惑な話でした。オープンが済んだら各店舗の工事代金を集金するのも難儀した。
 苦労したことだけが思い出される「市場」も、今はスーパーやコンビニ、DIY等に押され、変身を繰り返しながらも商店街と共に衰退の一途を辿っているのは寂しい限りである。
 

木賃アパート・賃貸住宅


 戦後も10年にならんとしている。日常の衣食については、何とか目途が付いてきたが、住まいを手に入れるのははまだまだ大変な事であった。
数度にわたる空襲で大阪の町も廃墟と化した。そこに復員軍人、海外や田舎の疎開先からの引き揚げ者、職を求めて来阪する労働者、大阪の住人はバラックと呼ばれた仮住居や狭小な住まい、商店も店舗もお粗末その物であった。
そんな空地に木造2階建てのアパートと称する4畳半や6畳一間で共同炊事場、共同便所の貸間の新築建物が目立つようになってきた。一ヶ月の家賃がほんの数千円で、完成する前に満室となることが多かった。4畳半は都会に就職した独身者であり、6畳あれば新婚さんのスイートホームでもあった。

 当社はこのアパートをグレードアップして更に幅半間のミニキッチンを付け上六ハウスと称して、今の天王寺区東高津町に土地を求めて新築した。
勿論便所は浄化槽を設置して水洗便所(当時の便所は現今のように簡単に水で下水に流せなかったので、所謂くみ取り便所でした)にしたからさあ大変。
棟上げがすぎたら(家賃も高く設定したのに)もう満室。浴室がないが、現代のワンルームマンションの元祖であると自負している。
 このシリーズは松崎町、細工谷、十三等。昭和33年には鶴橋でRC3階建で浴室もつけた現在の1ルームマンションの原型そのもので、姿、形は随分くたびれたが今も現役で家賃を稼いでくれているし、木賃アパートと称呼も変わりご老体をさらけ出しながら、時には邪魔者扱いをされても独居老人なぞに低家賃で提供して、今もそれなりにお役に立っているが、その大半は解体されて駐車場や建て売り住宅に変身している場所も多くなってきた。
つづく

------- 木村正一 -------
(2001年7月吉日)
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