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木村貴一


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(Voice of 木村工務店)

 

自己紹介


1959年3月大阪市生野区で木村工務店3代目として生まれる。

生まれたときから工務店の3代目だという訳ではないのだが、今から思えばそんなふうに刷り込まれたようだ。それゆえと言えば良いのかどうか、青春時代はその事に、かなり、もがいた。まぁ、それもいつ頃からか、それを受け入れ、良し、として生きられるようになった。勿論、そんな肩書きのない一個人としても、楽しく生き、成長し、探求を続けていきたいとは切に願う。

今は小路東と呼ばれる下町で育ったのだが、生まれた当時、この辺りは、大友町・大瀬町・腹見町と呼ばれていた。生まれてから現在までこの場所から離れたことがない。旅行で2ヶ月ほど留守にしたのが最も長い不在になる。自宅の道を隔てた前に木村工務店があった。今もそうだ。今、私はもう少し奥まった場所に住んでいる。

生まれた時、木村工務店ではコンクリートの学校建築を何棟か施工していたようだ。夕方の5時頃に生まれた。喜んだ祖父・初代社長(木村精一)は、現場の工事を全て止めて、全員を会社に帰らせて祝ったそうだ。また、その前後に大相撲春場所・大阪場所があり栃錦という横綱が優勝した。当時その後援会に入っていた祖父が、生後1週間もしない私を病院から連れ出し祝賀会で横綱栃錦に抱いてもらったという。その写真が今も残る。横綱に抱かれた子供は立派に育つという言い伝えに従ったらしい。本当にそうなるのだろうか・・・・? 兎に角、そんなふうに祝福された分、その喜びを返す事に専念していると、格好良く言っておこう。

平和幼稚園に通う。
近くに布施という場所があり現在の万代百貨店がある場所にその幼稚園があった。学芸会で指揮棒を振ったこと。そのために家で練習したなぁ・・・・なんてことを今思い出した。布施のあたりを幼稚園の友達と彷徨いて、迷子のような、心細い状態になり、家に帰るのが遅くなる。家に近づくと両親やうちの会社で働いていた谷ヤンというおっちゃんが、血相かいて探していた。あまりひどくは怒られなかったような気がする・・・・。なんてことをふと思い出す。

小さい頃はきっと我が儘ばかり言っていたのだろう。会社の倉庫の柱に縄で括り付けられる。当時の会社は木造。おそらく記憶では2階の物置。その下は何十袋ものセメント袋を積み重ねてあった倉庫だったと思う、前後の記憶がないが、その物置で縄に括り付けられて、足下にネズミがやってきたことが記憶として残る。黒沢明の三四郎という映画の三四郎が池の柱にしがみついている場面を見た時、なぜか三四郎に共感を覚える。

小学校に入るまでの遊び場は家の周辺の道路だ。その道路には材木が何本も積んで置いてあり、その上に乗っかったり、床机(しょうぎ)という椅子が道路に置いてあって、そこでゴロンとしたりした。近所の子供どうしは、隠れんぼ・缶蹴り・ポコペン・坊さんが屁をこいた。なんて言う遊びをした。逃げ回って隠れる場所は路地だ。長屋続きの家の間にある路地は縦横に張り巡らされており、走り回る事が出来た。今はそんな路地には建具で閉じられ、通ることが出来なくなってしまった。


地元の大阪市立東小路小学校に通う。
それなりの優等生だったかもしれない。勉強はそれなりにましな方、スポーツも好きだった。小学校2年の誕生日会にはクラス全員が来てくれて、代わり番こに皆でお風呂に入った。女の子が入っているときに誰かが覗いたとか何とかいって騒いだり怒られたりしていたなぁ・・・という記憶が蘇る。運動会でのリレーではアンカーになってタスキを掛けて走ってゴール前の大逆転劇を演じたような記憶もあるが、中学生になったある日から急に早く走れなくなった。小学校4年生ぐらいから塾通いもした。そう言えば、低学年の頃までは学芸会があって、鉄人28号になって舞台に登場した。その登場したときの会場から沸き起こったどよめきだったか、笑いだったか良くわからないが、客席からこちらに押し寄せてきたその波動をきょとんとした思いで感じたなぁ・・・と今思い出した。

絵も好きだった。本当に技術的にはへたくそだったが、毎年、どこかのコンクールに入選して賞状をもらっていた。小学校5年生のある日、絵の具の筆を新しくしようと、何気なく思った。幼稚園の時から使っていた一本の筆を捨てて、新しい筆に替えたのだ。そうするのが良いとその時は思った。暫くして、全く絵が描けなくなった。それが筆のせいだけではなかったのだとは思うが、兎に角、その捨てた筆でないと思うように描けなかった。その筆先は自分の癖に馴染んでいて、心地よい感じで書けたのに、新しい筆先は思うようにならなかったのだ。と、そう気づいたのは6年生になってからだった。その記憶が道具や物を大切に使おうとする原点だったのかもしれない。

担任のH先生という女の先生から、昔はましな絵を描いていたのに今はあかんなぁ・・と。小学校1・2年の頃はこんな絵を描いていたのに、今わねぇ・・・。と言われて、その時の絵の話をしてくれた。その絵は初めて祖母に連れられ、乗せてもらった新幹線の思い出を画いた絵だった。大きな富士山が全面にあって、画面の下に細長く新幹線が端から端まで走っているという絵だった。その話を聞いていて、反発心を感じたのだろう。我に返って、奮起した。そうして画いたのが、工事中の木造住宅の2階から、大工さんが立てるかけてある材木を2階に引き上げようとしている様子とカンナをかけている様子を描いた絵だった。カンナをかけていた様子を画いたかどうかの記憶は曖昧だなぁ。兎に角、その絵が入選をした。暫くは、古い社屋のエントランスに両親がその絵を飾ってくれていた。見るたびにへたくそだなぁ・・・と思って、駆け抜けて行った。葛飾北斎が画いた大工さんがカンナがけをしている絵を見るたびに、私はその絵の事を思い出す。

低学年の間は学校から帰ると直ぐに押し入れの襖に向かって逆立ちをし、それから会社に行った。いらなくなった図面を切ってメモ用紙に使っていた、そのメモ紙が会社の机の横に紐でくくりつけてあった。それを引き契って、絵を描いた。写生は苦手で大嫌いだったので、空想画だったか、何か、あまり形のはっきりしなかったものを描いていたと思う。

そうだ。水泳も大好きだった。小学校1年か2年の時、初めて入った25メートルプールで泳ぎ出すと、いきなり25メートルが泳げだ。先生が大きな声と身振りでターンをしろしろと促した。ターンとは何のことかわからなかったが壁に手をついて逆に向いて泳いだ。その時はいくらでも泳げそうに思えたのだが、なぜか途中で立つことにした。記録は40mだった。4年生の時、K先生が水泳の盛んな学校を紹介してくれて、放課後、そこで水泳を習うことになった。親に連れられて行ってみると、世の中にはもっともっと上手い人が一杯いることを知った。気後れしたのだろうかなぁ。理由は忘れた。親の都合もあったのだろう、なぜがそこには行かなくなった。


地元の大阪市立新生野中学校に通う。
廻りが成長期でどんどん成長していく中、全く成長が止まる。膝に軟骨が出来たりして、痛くてスポーツが全く出来なくなる。階段の上り下りもしんどかった。身長も伸びなくて低い方から4番目ぐらいだった。好きだったスポーツが出来なくなってきて、たぶん、初めてコンプレックスのようなものを感じだしたのだと思う。運動会でも活躍?出来なくなり、その夜、やけくそになって、手の上に載せたリンゴをナイフで切り落とそうとして、勢い余って小指まで切る。その傷の影響で、未だに左手小指の第一関節から上が思うように動かない・・・・。

そんな分、勉強はそこそこはした。3年生の担任は社会科を教えるT先生だった。授業はいつも面白かった。その時、覚えさせられた日本国憲法前文は未だに忘れずにいて、暗唱できてしまう。人間の記憶とは不思議なものだ。忘れようとしても、忘れずに覚えているのだ。あぁ、もっと別な有意義な何かを永久な記憶として留めておきたいと、何度、思ったことかぁ。日本国憲法前文が何の役に立つのかぁ・・・とね。時々、記憶が曖昧になる箇所が何カ所かはあるのだが、それでも忘れないのだ。何でだろうね。そんな訳かどうかは知らないが、日本国憲法前文が創られた経緯にはいろいろな異議を唱えるのだろうけれど、書かれてあるその内容は、それなりに良いなぁと思う。まぁ、ちょっとした前文ファンだなぁ。T先生に感謝。

そうそう、ある朝、起きると担任のK先生が家に泊まっていてびっくりした。PTAをしていた親父が一緒に飲みに行って語り明かしたのだろう・・・。まぁ、そういう、よき時代だったのだろうなぁ。K先生は美術の先生だった。最初に色相環の授業があった。未だにその授業が色の事を考える基本になっていると思う。美術の授業はいつもいつも最高に素敵な授業だった。相変わらず私は技術的にはへたくそなままだったが、その授業の記憶が今の絵心の何かを形作っていると思う。K先生にも感謝したいなぁ。K先生は生徒が作品を画いている間中、目を閉じて、黙ったまま、静かに座っている。その時の教室を包む空気は未だに記憶として残る。今思い返せば、瞑想的な時間だったのだ。

大阪府立住吉高校に通う。
自由だった。ほとんど拘束されるものがなかった。なぜか、全く勉強しなくたった。スポーツにも興味がなくなった。絵なんて描いていたことすら忘れた。「私」って何・・・・・なんて事を考え出したりして、自分の生い立ちや将来を問い。妙に、もがいた。

(続く・・・かな?)