【木村工務店のヒストリー】

創業者、木村精一
明治44年2月、現在の三重県一志郡美杉村八知にて誕生幼児にして父と死別のため 母の姻戚をたどって
(現在の)愛知県碧南市新川に移住

大正13年3月
新川小学校卒業、碧南市大浜「大清商店村上家」(建築と木材業)にて 大工見習いとして弟子入り、修行に励む

昭和の始め頃の普請方の出で立ち
(写真右側が創業者の木村精一)

小学校を卒業して、大工の頭領に弟子入りしてから5〜6年
年季が明けて待望の「職人」となると、こんな服装ができる
町屋大工の典型的なユニフォーム

昭和8年
年季明け後も大清商店にて勤務していたが、一念発起、大阪市赤尾商店(建築建売業者)に転職
当時流行の長屋の借家建築に携わり、土地手当、建築、販売、引渡と一貫したノウハウを会得し、 更に趣向を凝らした建物で人気を博した。と伝えられている

昭和12年8月
惜しまれながらも赤尾商店を退社
現在の大阪市生野区小路東2丁目にて「建築業木村商店」を設立
当時のこの付近は大阪市の東部田園地帯で、田んぼをコークスで埋め立てて借家を建て販売する工事が多かったと聞く
船場や久宝寺町の旦那さんが商売の浮き銭で副業として、 収益の上がる長屋を市内の近郊で購入するのが旦那のステイタスでもあったようだ。 ここに株式会社木村工務店の創業の1ページが開かれた

昭和15年頃に当社が建築した1ランク上の4軒長屋の借家住宅と若いおかみさん達
昭和16年頃
長屋借家の建売りをベースに、購入して戴いた旦那衆の口利きで 浪花学園、錦城商業学校
(今の近大付属高校)など 木造大型学校建築や店舗、工場、住宅へと業容が拡大して行った

昭和18年頃
第2次世界大戦が日増しに熾烈化してきた
大阪市内も建物の強制疎開で 強制解体が始まり、 当方の作業場も木工機を利用して陸軍の軍需工場となり 機雷爆薬の箱を作る事になり、事実上の休業状態となった

更に昭和19年には
木村精一にも召集令状が来て、陸軍工兵隊に入隊したので、 自分の借家を売却し家族は、出生地である三重県八知村に疎開した

昭和20年8月
終戦、直ちに除隊され帰阪した
幸いにも自宅、作業場や周辺の家屋等は、空襲による戦災を免れたため、 戦災復旧工事に取りかかることが出来たが、 食料もなく、資材もなく、資金もなく、職人も揃わず、しかも物価統制令をはじめあらゆる規制の網が張られて、 復興工事は遅々として進展を見なかった

復興の足がかり
工場の端材、古木等で燃料用の薪を作り店先に並べて販売した時期もあったそうで、 飛ぶように売れたと聞いている
衣食住全てが不足、日用品で石鹸も洗濯用も洗顔用も入手困難であった、 これに目をつけた近所の人が、大鋸屑入りの代用石鹸を作って大儲けをした
増産のための工場の新築依頼が来た
短工期、低価格で工事を完成したので、次々と工場建築先を紹介して戴いた
木造平屋建てモルタル塗り、小屋は合掌組でセメント瓦葺きが半ば規格物。 集金は10円札を数えて石炭箱に詰め込み上から風呂敷をかぶせて自転車の荷台に積んで帰宅
銀行員が来て枚数をチェックすると10枚前後の過不足があった
そらそうでしょう、普通でも5千枚(金額で5万円)と言う枚数で数え切れないのも事実で「100枚単位を積み重ねて高さを合わせた」とも伝わっている
昭和22年の「建築物竣工検査済證」は石鹸工場の検査済証と思われる

会社設立
工場建築に続いて、復興住宅の新築、増改造の需要が起きててきた
住宅新築の際も、戦後復興住宅規制があり延べ坪18坪以下となっていた
住宅金融公庫の発足と融資も始まったが延べ床面積18坪以下について融資対象となっていた
軍人の除隊、海外からの引揚げ等で本土の人口は増加の一途をたどり戦後のベビーブムが始まった
戦災で焼失荒廃した小学校は校庭に仮設校舎を建てて二部授業の状態であり、 さらに学制改革が持ち上がり中学校の新設が始まる様相となってきた

大阪市の指名業者となり学校建設の請負をすべく営業を行い、 経営基盤を整備強化するため個人商店を昭和24年4月株式会社に組織変更

社名を「株式会社 木村工務店」として木村精一が初代社長に就任した

学校建築
昭和24年大阪市より木造2階建て校舎の新築を受注施工することになった。 深江小学校をはじめ片江、神路、啓発、赤川、東小路、・・・・木造校舎の建設は20校を超えていた


昭和26年大阪市の発注による生野中学校新築工事の現場監督

背後には型枠加工の下小屋が建てられている
「戦後最も大規模なRC造の校舎建築であった」

 

RC校舎の建築
一方では新制中学校の開校と校舎の鉄筋コンクリート化が始まり、 大阪市では戦後初のRC造校舎を文の里中学校と生野中学校で建設されることになり、 昭和26年11月弊社は生野中学校の受注に成功
戦後最大の鉄筋コンクリート校舎の建築と騒がれたものです
以後小、中学校のRC造校舎建築を数多く施工することが出来た
運動施設の建築
昭和26年7月大阪市で日独対抗陸上競技大会が、大阪市営市岡運動場で開催されることになり、 運動場の整備工事を同年4月に受注した
従来のRC造スタンド下に更衣室、貴賓室、シャワー室、運営事務室等の整備改装工事で、工期は2ヶ月

現場に行ってみるとルンペンの寝床
それも50人〜100人も不法侵入していたから驚いたそこで早速、地元の親分にお願いして追っ払ったが夜になると舞い戻ってくる
それではと、近所で飼っていた一寸凶暴な犬をお借りして1週間放し飼いにしたら、 さすがの浮浪者も寄りつかなくなった
丁度梅雨時で連日の降雨に工事は難航したが、期日までには完成した
「 出来上がったばかりのアンツーカーの400mコースを 持ち合わせのスパイクで走ったときの爽快さはいまだに感触として残っている」
日独対抗陸上競技大会は盛会裏に終了した

運動場は、その後長居競技場に集約され、跡地は大阪国際見本市会場となり、 更に現在は大阪市立中央体育館と大阪プールに変身している

昭和27年5月から 現在の長居競技場の前身・長居競馬場のメインスタンドをRC造約150m新設する工事を大阪市より受注した
隣接して競輪場、競馬場はオートバイレース場にも使用されていた
世間の景気は今一で市民は勢いづいたインフレに追いつけず、ギャンブルに走る人も沢山いるんだなーと感心させられた
「 今も昔もギャンブル好きの人は変わっていないもんですね」

昭和30年頃の事務所

机にはそろばん、Gペン、カーボン紙と罫紙など
製図板の上にはT定規と三角定規、雲形定規や分度器、烏口などが必需品

昭和30年 地元の清見原神社拝殿増築工事を受注

上棟祭神事の職人達の装束姿
( 写真最前列右より6人目が創業者の木村精一、その右隣が設計者、最前列左5名は当社の大工職)
昭和32年照井会館
大阪日本橋交差点北側で、関西で初めての総合結婚式場の建設を施工した
控室、貸衣装、かつら、着付け室、神殿、写真撮影場、宴会場など、当時全てを備えた画期的な結婚式場で大いに賑わったが、ホテルなどの進出で元職の衣装、かつら、パーマ店に戻った
現在の結婚式場もほぼ同形式で運営されている
写真は現在手前丸善石油跡地は三和銀行