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社 名 |
株式会社 木村工務店 | |
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所在地 |
大阪市生野区小路東2丁目20番25号 | |
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創 業 |
昭和12年(1937年)8月 | |
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会社設立 |
昭和24年(1949年)4月1日 | |
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資本金 |
24,000,000円 | |
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代表者 |
代表取締役会長 木村正一 | |
| 代表取締役社長 木村貴一 | ||
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建設業許可 |
大阪府知事許可(搬-21)第14619号 | |
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許可の種類
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建築工事業・大工工事業・とび・土工工業事 | |
| タイル、れんが工事業・内装仕上工事業 | ||
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建築士事務所登録
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株式会社木村工務店1級建築士事務所 | |
| 大阪府知事登録(リ)5348号 | ||
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事業内容
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各種建築工事の総合請負 | |
| 企画・設計・監理 | ||
| 建築資材の販売施工 | ||
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関連会社 |
セルドム技建株式会社 | |
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| 昭和12年 8月 | 木村精一が現地にて建築請負業の個人営業を開始 | |
| 昭和10年代 | 木造長屋建築・文化住宅を多数施工 | |
| 昭和18年10月 | 戦時中により爆薬収納箱の軍需指定工場となる | |
| 昭和20年 9月 | 終戦により建築請負業を再開 | |
| 昭和24年 4月 | 個人営業を組織変更し株式会社木村工務店を設立 | |
| 資本金50万円、代表取締役に木村精一が就任 | ||
| 昭和20年代 | 大阪市の工事を受注し、 木造校舎・木造作業場・復興住宅を多数施工 |
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| 昭和27年 8月 | 本社事務所及び工場を増改築し木工機器を増設。 | ![]() |
| 昭和30年代 | 大阪市の工事を主力に RCの学校建築等を多数施工 |
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| 昭和33年 5月 | 専務取締役に木村正一が就任 | |
| 民間の鉄骨造・RC造の工場・マンション・住宅を施工 | ||
| 昭和38年11月 | ALCのシポレックス㈱指定責任施工店となり 軽量気泡コンクリート「シポレックス」の施工と販売を開始 |
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| 昭和40年代 | 官公庁の工事から民間の工場建設及び 住宅・マンション・店舗を主力に施工 |
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| 昭和44年 4月 | 資本金を600万円に増資 | |
| 昭和44年12月 | 営業事業所の増築拡充工事完成 | ![]() |
| 昭和50年代 | 民間工事100%で受注し、 商業施設・住宅・工場を施工 |
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| 昭和55年 9月 | 資本金を1,200万円に増資 | |
| 昭和61年 2月 | 旭硝子関西建材㈱と特約店契約を締結 | |
| 昭和61年 4月 | 建材部門を分離独立しセルドム技建株式会社を設立し 代表取締役に木村正一が就任、建築資材の販売施工に当たる |
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| 昭和63年 1月 | 代表取締役社長に木村正一が取締役会長に木村精一が就任 | |
| 平成 | 民間工事100%で、 住宅から工場・マンション・神社仏閣まで幅広く手掛ける |
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| 平成 3年 5月 | 本社新社屋増改築工事完成、 事務及び設計のOA化に着手する |
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| 平成 5年 4月 | 専務取締役に木村貴一が就任 | |
| 平成 6年10月 | 取締役会長 木村精一が死去 | |
| 平成10年代 | 自然素材の可能性を追求した木造住宅を手がける 官公庁工事の受注を再開する |
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| 平成10年 8月 | ホームページを公開する | |
| 平成10年12月 | IT化に着手しサイボウズを導入する | |
| 平成12年 4月 | パソコンを一人一台体制とし サイボウズによる品質管理システムの構築に着手する |
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| 平成12年 5月 | 資本金を2,400万円に増資 | |
平成14年 7月 |
木村貴一がテレビ番組「大改造劇的ビフォーアフター」に 匠として出演する |
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| 平成15年代 | 注文住宅・リフォーム・建築家と協働を主力に受注する | |
| 平成18年 6月 | 代表取締役会長に木村正一が就任 代表取締役社長に木村貴一が就任 |
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●創業者、木村精一●
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●大正13年3月● |
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| ●昭和7年● 年季明け後も大清商店にて勤務していたが、徴兵検査のため出生地の叔父の家に身を寄せる。 徴兵検査の結果兵役猶予になったため、近郷近在の住宅の新築や改造、寺院の改修等に従事する。 |
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●昭和8年● |
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●昭和12年8月● |
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| ●ここに株式会社木村工務店の創業の1ページが開かれた● | |||||
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| ●昭和16年頃● 長屋借家の建売りをベースに、購入して戴いた旦那衆の口利きで 浪花学園、錦城商業学校(今の近大付属高校)など 木造大型学校建築や店舗、工場、住宅へと業容が拡大して行った。 |
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●昭和18年頃● |
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●更に昭和19年には● |
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●昭和20年8月● |
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●復興の足がかり● |
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●会社設立● |
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●学校建築● |
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| ●運動施設の建築● 昭和26年7月 大阪市で「日独対抗陸上競技大会」が、「大阪市営市岡運動場」で開催されることになり、運動場の整備工事を同年4月に受注した。 従来のRC造スタンド下に更衣室、貴賓室、シャワー室、運営事務室等の整備改装工事で、工期は2ヶ月。 現場に行ってみるとルンペンの寝床。 それも50人~100人も不法侵入していたから驚いた。 早速地元の親分にお願いして追っ払ったが夜になると舞い戻ってくる。 それではと、近所で飼っていた一寸凶暴な犬(S君)をお借りして1週間放し飼いにしたら、さすがの浮浪者も寄りつかなくなった。 工事は昼夜を問わずの人界戦術、折り悪く梅雨時で連日の降雨に外構工事は難航を極めたがやっとの思いで期日までに完成した。 当時の「中井光次」大阪市長から々にお褒めの言葉を賜り、工事実績として以後の大阪市の受注に大いに貢献した我が社の出世作であった。 当初契約額は440万円だったが、完成してみれば400万円余の追加工事があった。 完成した煉瓦色のアンツーカーのトラック400mを自前のスパイクで二人で走ったときの爽快さはいまだに感触として残っている。 「第一回 日独対抗陸上競技大会」は盛会裏に終了した。 運動場は、その後「長居競技場」に集約され、跡地は「大阪国際見本市会場」となり、更に現在は「大阪市立中央体育館と大阪プール」に変身している |
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| ●長居競馬場● 昭和27年5月から現在の「長居競技場」の前身・「長居競馬場」のメインスタンドをRC造約150m増設する工事を大阪市より受注した。 隣接して競輪場、競馬場はオートバイレース場にも使用され連日のように何かの競走が開催されていた。 世間の景気は、今ひとつで市民は勢いづいたインフレに追いつけず、ギャンブルに走る人の山、都会には遊び人も沢山いるもんだなーと感心した。 今も昔もギャンブルに群がる好き者の数は変わっていない様です。 |
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当時の資材運搬の手段は、馬力車やリヤカー、自転車の横付車、大八車なぞであった。積荷は馬力で1屯余りか、夜明けから夜半まで2~3回往復していた。 ある日、馬力を引っ張って長居競馬場の現場に来た青年、ついでに買った100円の馬券が、なんと1万2千円と大当たり。喜んだその男、帽子、背広に革靴まで購入、余った金で二人して飛田遊郭で1泊して帰ってきた。ちなみに当時の高卒の初任給が4~5千円の時代であった。その人は、工事期間中の給与の大半をつぎ込んだが、「大海に魚一匹」というあり様だった。しかし、以来40年間、競馬にぞっこん入れ込んで、いまだに場券を買うのが趣味なそうな。方や創業者木村精一のように馬と他人が乗って走るもんは当てにならんと、ギャンブルに手を出さん人もいます。 -人生悲喜こもごも- |
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| ●最初の鉄筋コンクリート建築● 一方では新制中学校の開校と校舎の鉄筋コンクリート化が始まり、大阪市では戦後初の鉄筋コンクリート造校舎の建設を、市立「文の里中学校」と「生野中学校」の2校で試されることとなり、昭和26年10月弊社は「生野中学校」の受注に成功した。 戦後最大の鉄筋コンクリート校舎建築と騒がれ、建築業界からも注目されていた工事でもあった。 当社としても本格的な鉄筋コンクリート建築についての経歴はなかったが、受注に結びついたのは先の「市岡運動場」の工事に対する意気込みが功を奏したと思っている。 鉄筋コンクリート建築に一歩足を踏み込むことが出来た当社の記念すべき建築でもあった。 以後小、中学校のRC造校舎建築を数多く施工することが出来た。 |
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| ●本社・工場の整備● 朝鮮動乱を契機として大阪の街も目に見えて活況を呈してきた。 終戦直後のバラック建築から本建築に建て替える工事の受注が増加してきた。 運動具店、パン工場と店舗、飲食店や喫茶店、木造のアパートや文化住宅、etc民間はやっぱり価格の安い、工期の早い木造が主体であった。 |
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| ●昭和27年春● 建築の生産性を考慮し少しでも現場作業を減らすことが出来れば、工期を短縮し、品質管理が出来ると、現在地にあった倉庫を工場として新築することにした。 戦前の丸鋸は台車付帯鋸になり、1本の丸太から1軒の造作材を取り揃えることも可能になった。 プレナー、研磨機も役に立った、三方プレナーは特に威力を発揮した。縁甲板をフローリングに加工する、額縁、水垂加工、造作材の加工にフル稼働した。 近郷近在の材木屋さんがトラックや馬力に満載で賃加工に来てくれた。 木造2階建の事務所も新築した。
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工場の木造小屋組はスパン約8間(約14m)の木造トラスであった。
この木造トラスは市内で現存する数少ない木造トラスとなり改築することに躊躇しているのである。
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| ●RC造住宅とスチールサッシ● 昭和29年頃1階がパーマ店の3階建て住宅を建てたいが南区坂町の角地、火災は2度と遭いたくないので鉄筋で燃えないように、との注文を受ける。 鉄筋コンクリートの建築は自信満々、窓枠も初めてスチールサッシを使用する事とした。諏訪町のセパレータとボールトの金物屋が家で作ります。と寸分間違いのないサッシを製作取り付けてくれた。諏訪工業の第1号作品だった。 同じ頃、大阪市某局の局長さんが、「大学の同級生が中道で眼科医院を新築したいが、鉄筋の2階建てと言ったら工事してくれるところがないそうで、君んとこでたのむわ」と何れも約30坪の土地。工事は無事完成したが、狭小地でのRC造建築の難しさは、今後の課題となった。 当時は生コンなんて有りません。 現場内(時には建物内)にミキサー据えタワー建て、砂、バラス、袋入りセメントを搬入して調合練り上げるのです。 -物も労力も現代では考えも及ばない時代でした- |
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●昭和25年6月、朝鮮半島38度線を挟んで朝鮮動乱が始まった。 |
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●「公認市場」建築 |
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| ●木賃アパート・賃貸住宅 日常の衣食については、何とか目途が付いてきたが、住まいについてはまだまだ大変であった。復員軍人、海外や疎開先からの引き揚げ者、職を求めて来阪する労働者、大阪の住人は「バラック」と呼ばれた仮住居や狭小住まい、商店も店舗もお粗末その物であった。 |
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| つづく ------- 木村正一 ------- (2001年7月吉日) |















