2004年の海の日に、なぜか堀山に行った。さしたる意図もない。偶然そうなっただけだ。大阪から1泊2日で遊びに出かけた。まぁ、いつもと、同じ調子で、軽く出かけたのだ。こんな感じで、1年に2、3度、多い時は5度ほど、堀山に遊びに出かけるようになって、もう18年近くになる。

その昔、はじめて、堀山の家に到着したのはもうすでに真っ暗になってからだったと思う。まるで、幽霊のように、静かにひとりストーブの前に座っている「おとうさん」が居た。いつもの帽子を深々と被っていた。勿論という言い方はヘンなのかもしれないが、セツ(私はヒゲさんのことをこう呼んでいる)と一緒だった。まだ、私も30頃だ。セツは40代だ。そして、「おとうさん」もきっと50才頃だったのだ。当時のセツは今より、もっともっと、体の調子が悪かった。記憶がはっきりしないが、おそらく、まだ、なっちゃんとは知り合っていないはずだ。当時のセツは半身不随そのものだった。ただ、元気な頃のセツを知る私は、半身不随になっているセツをやさしくいたわるつもりなどまったくなかった。もちろん、親切にかばったりなど、当然しない。あの、強烈な個性とオーラーを発していた、若い頃のちょいわるなセツのまま接するだけなのだ。いまだに、そう接している。そして、その日もセツの体のことなど、あまり考慮していなかった。

そのセツと一緒に昔の渋沢の駅に降り立ち、古い商店街の所にあった昔のバス停からバスに揺られて、大倉のバス停に到着し、きっと、昔の大倉食堂でラーメンを食べたのだろう。ビールも飲んだかもしれない。兎に角、まだまだ日が明るかったはずで、私は、丹沢がどんな山かも知らずに、セツの誘いにまかせて、その山道を歩き出したのだ。途中の山小屋には全部、立ち寄った。十分すぎる休憩も取った。四方山話を語り合いながら、少し進んでは、たっぷりと休憩し、語り合い、そして、途中の小屋では、むちゃくちゃとよ呼んでいいくらい長い時間を費やした。結局、大倉のバス停から堀山に着くまでに30時間以上も掛かってしまったのだ。1時間30分ほどで登れるところが、一泊二日の時間が必要だった。当時のセツと私にとっては堀山がまるで、アルプスの頂上のような感覚だった。もちろん堀山の上にある花立や塔ヶ岳はまさしく、雲の上の存在だった。チョモランマ級だった。実際、私が塔ヶ岳の山頂に立ったのは「堀山通い」がはじまって、3年は経過していた思う・・・・・。

セツのリハビリを兼ねた堀山通いを優しく見守ってくれていたのが、帽子を深々とかぶった「おとうさん」だった。あの帽子の中が、かなりの禿げだと知ったのは、3年後ぐらいかもしれない。最初の頃は、「おとうさん」とセツと私の3人で過ごすことが多かった。ほとんど、山登りをする人がいなかったのだ。そういえば、もう一人、見晴らし小屋の「化けじぃー」も加わって、とりとめのない話をいっぱいいっぱいして、過ごした・・・・。途中からガンバが加わり、ケーキ屋さんも加わり、ターちゃんも加わりと輪が広がった。その他、多くの人がやって来て、そして去って行った。私は1年に数度しか行けなかったので、「おとうさん」との、年数は長いが、回数は、ほんと、少なかった。



2004年の海の日に堀山の「おとうさん」が塔ヶ岳に登るという事が、そんなに重要なことになるとは思わなかった。ましてや、それが、最後の登頂になるなんて、思いもしなかった。私にとってはいつものようにぐたぐた言いながら「皆と一緒に堀山で過ごす」そのことが唯一重要なことだった。それにしても、その日の堀山には不思議なメンバーが集まった。ターちゃん・ガンバ・ケーキ屋さん・みっちゃん、そして、アルカムの二人に角さん、もちろんセツになっちゃん。写真の子供は私とターちゃんの息子だ。今から考えると、何かに吸いよせられたのだなぁ・・・・・。

「おとうさん」の後に付いて何回、山に登ったのかなぁ・・・・。「おとうさん」の歩き方が好きだった。独特のリズムがあった。それは「いち・にい・さん・いち・にい・さん」という感じじゃなかった。「とんとんとんとん」でもなかった。なんというか「つぅつぅつぅつぅ」というリズムで軽快に登っていた。私は時々、その背後について、その歩き方とリズムを学んだ。白いTシャツの後ろ姿がその日の「おとうさん」だ。その日は、なぜか、どうしても、その後ろ姿を携帯カメラで撮りたかったのだ。確かにいつもの軽快さはなかったのだが、それでもまぎれもない「おとうさん」の歩き方だった。



突然だが、なぜか、堀山を下りて、秦野祭りにセツと三人で出かけた日の事を思い出した・・・・。そうそう、「おとうさん」には沢登りを教わった。小草平の沢・水無川(うー、記憶が定かでない)勘七の沢と何人かで一緒に沢をやった。当然、「おとうさんが」先頭にたち、皆を確保してくれた・・・・・・。小草平には当時まだ10歳ぐらいの長男も連れて行った。今はもう19歳になって、東京の大学に通う。ほんとうは、この4月に大学を合格した報告に「おとうさん」の家に行く予定にしていた。それがかなわなかった。訃報を聞いた長男は涙したという・・・・・。

その時、小草平の沢で息子が落ちたのだ。2メートルほどの沢だった。確保なしで登っていた。先に登り切った私が、登ってくる息子に上から言葉をかけた。なんだか、叱るような口調だったのだろう。息子が驚いて手を離した。それを下から登ってきていた「おとうさん」が横っ飛びになりながら息子をとっさに抱きかかえ滝壺に一緒に落ちてくれたのだ。九死に一生を得た。「おとうさん」の事を「命の恩人」と息子は呼んでいる。その時、おとうさんは勤続祝いか何かの時計をはめていた。そして、それを無くしたか潰したらしい。でも、にっこりと黙って、許してくれた。そして、今までずっと許してくれている。そして、もう、永遠に許してくれるのだ・・・・・。

勘七の沢のF5の滝を登った感覚とその上がりきった時に、上で確保してくれていた「おとうさん」のムードは、私の中の永遠の感覚として残る。

古い昔の堀山の小屋がリフォームされ、新しくなっていく様子を眺め続けた。断っておくが、私は小屋作りを全く手伝ったことがない。それどころか、水汲みだって、2度ほどしか行ったことがない。ボッカもしたことがない。薪だって運んだのは1度ほどだ。薪割りもしたことがない。食事だって手伝ったことがないのだ。全く何もしたことがない。いつもいつも「おとうさん」の世話になりっぱなしだった。おとうさんがどう思っていたのか知らないが、私はそれを勝手に良しとしていた。昔の小屋を覆い隠すように新しい小屋を造っていくその過程が面白かった。それにしても小屋の「作り」そのものは「酷いなぁ」と言えるのだが、そんなこと以上に、その「行為」が素敵だった。それはそれは見事なビフォーアフターだった・・・・・・。私にリフォームという「行為」を「好き」な職業として、その「ハート」とその「エネルギー」を与えて続けてくれているのが「おとうさん」だ。

特にその事は「おかあさん」に伝えておきたい。 ありがとう。

これを書こうと思ったのは、前々から「おとうさん」におとうさんが発行する冊子のために山のことを何か書いてほしい。と頼まれていた。でも、そうしなかった・・・・・。それが、前々から気になっていたのだ。今日、自宅の便所の前に貼ってある歳時記カレンダーを眺めていた。便器に座って眺めながら、今度、堀山に行けそうな日程を考えていた。そしたら、4月18日と19日の間に、こんな芭蕉の句が書いてあった。その句と「おとうさん」が結びつき、涙した。

 

ほろほろと やまぶき散るか 滝の音        (芭蕉)