仏壇の旅

仏壇を中心に、リフォームのプランを考える。なんていう、そんな発想を持ったことなど、全くなかったが、祖父祖母が亡くなり、親父も亡くなり、母親まで亡くなると、兄弟姉妹が集まって、仏壇に手をあわす機会というのが、それなりに大切なコトだと理解してきて、ところが、その仏壇が、ハレの場としての座敷になく、それは数寄屋の座敷で、床の間はあるが、仏間がない、いわゆる大工と祖父が、そういうちょっと変則的で、カッコエエスタイルが好きだったからだろうが、それで、離れにあった祖父母の寝室だった和室に、仏壇が鎮座していた。
祖父母が亡くなると、寝室だった和室は、仏壇に手をあわすためだけの和室となり、それも離れだったので、廊下を歩いて、敷地の一番奥まったところまでいくのが、ちょっと奥の院的な感覚で、足繁く通うような仏壇とはなっていなかった。そのうえ、父も母も亡くなると、母屋は無人となり、しかもその母屋に仏壇がなく、離れにあり、なんというか、母屋は空き家な状況で、お正月に、ハレの場としての数寄屋の座敷に、家族でお屠蘇をするためだけの母屋になり、ましてや、私の兄弟姉妹が集まり、先祖に感謝するような雰囲気の「家」ではなかった。
このまま母屋は、永遠に空き家のままになってしまうのか…..とおもっていたら、長男が、東京から帰ってきて、木村工務店に入社し、結婚もし、同居して住むという、いままで、全く、考えた事も無いチョイスが、ハプニングのように降って湧いてきて、それなら、同居しつつも、私たち夫婦が、母屋に移り住むという、至極当たり前のような選択肢を模索するようになった。

母屋であるのなら、仏間があり、その仏間が、代々受け継がれていくのが、オーソドックスな日本的で、それなら、この数寄屋の座敷に、なんとかして、仏間を造る必要性を感じ、プランを模索しはじめた。南向きの床の間の一部に、強引に仏壇を置くという手法もあるのだろうが、それは、建築的な美意識からすると、良しとは出来ず、ならば…..と考えると、東向きに片引き襖戸があり、その一部を改修して、仏間を造るのが、この数寄屋の座敷のデザイン活かす、唯一のプランに思えてきて、ところが、その仏壇を置こうとする丁度その位置に、2階に上がる階段があり、仏間を造るのなら、階段を撤去して、新たな位置に階段を付け替える必然性に迫られた。
「減築」というコトバが、「増築」というコトバ以上に、格好良い響きになってきたのは、ここ数年のことだとおもうが、2階建ての住宅の2階を撤去して、平屋にするというコトに、ほんとうにメリットがあるのかどうか。それは、おいおい判別されるのだろうが、我が母屋は、階段を付け替えるプランを考えるより、階段を撤去したついでに、2階も撤去する。という減築をチョイスすることにして、母屋には、保存した座敷に、仏間が配置され、リビングキッチンをリニューアルし、ダイニングは大人数で食事ができる大テーブルが配置されることになって、離れが私たちの寝室になることになった。
離れの仏壇を移動して、母屋と庭続きで、長男夫婦と同居している、私たちの住宅にある和室の客間に、仏壇が仮設置されて、リフォーム工事が開始されたが、うちの大工さんたちが、お客さんの現場と現場の間隙をぬって、施工をするので、まったく職人さんたちが、作業をしない時期が、2ヶ月以上もあったりし、それに、2階を減築する作業が、想定以上に大変な作業で、手間が掛かり、おもうように全く工事が進捗せず、いつしか職人さんたちから、「小路のサクラダファミリア」とあだ名されるようになり、そのリフォームの期間中に、孫が二人も出来て、ひとりめの孫イッケイは、同居の中で、2回の誕生日を迎え、ようやく、3回目の誕生日は、「母屋」でお祝いが出来そうで、そんなこんなで、離れの仏壇は、同居する家の客間に、2年以上も旅をし、そして、ようやく、母屋の座敷に辿り着いたのが、この金曜日の朝の出来事だった。
土曜日。私の兄弟姉妹とその家族が集まって、お坊さんにきて頂き、仏壇の移設を祝う読経が、その数寄屋の座敷に響いて、旅する仏壇に、ようやく居場所が出来た日だった。

そういえば、研修旅行の一日目は、黒澤明の夢の最後のシーンのロケ地にもなった、大王わさび農園の美しい湧き水の上をゴムボート進んだが、黒部ダムは、破砕帯の水に苦しめられて、あらこちらで、水が流れる様子を垣間見、「水」とういのが、日本的なキーワードのひとつなのだと、気付かされた旅でもあった。
そんなさなか。今週月曜日の納税協会の総会の時に、税務署署長から感謝状を手渡しで受けとる。有り難く頂戴しつつも、また、続けてね。みたいな、お願いでもあるわけで、こういうのを皆の前で、お渡しする、仕組みそのものが、良く出来ているともおもうわけで、いわゆる、「褒め殺された」わけであり、いずれにしても、「感謝」というのを、なんらかの「形」で表現されると、悪い気はせず、じゃぁ、来年もやってみるかぁ。みたいな心情になってしまうのが、心の有り様なんだろう…..。
日曜日。早朝に目が覚めて、久しぶりに自転車に乗って、十三峠からフラワーラインを抜けて、信貴山の朝護孫子寺の境内に立つと、大和盆地の屋根屋根が朝日に照らされて、キラキラして、とっても美しく、暫し見とれる朝だった。葡萄畑を通過し、三郷の方に降りて、モーニングが食べられるカフェに立ち寄ると、生憎の休業で、スマホからホームページを調べると、家族との時間をとるために、日曜日を休業にするという。そりゃ仕方ないね。なんておもえたりするのが、最近の働き方改革の影響なのだろう。誰もが、どんなライフタイルで、どんな働き方で、仕事と家族と遊びをバランス良く両立させて生きていくのかを悩む時代で、二兎を追う者は一兎をも得ず、なんていう諺が常識のように機能し、躊躇していたことが、大谷選手のように、二刀流として活躍できる可能性を模索するような時代で、さて、このカフェの家族は、どんなライフスタイルになっていくのだろうかね…..。
昨夜はとっても寒く、布団にくるまるようにして寝たので、今朝も少々肌寒く感じながら自転車に乗ったが、お昼からは、半袖で過ごせる心地良いエエ気候になって、そんな陽気のなかで、造園のイエタニさんによる、プランター台を製作するワークショップがあり、そのデザインを大手のインテリア設計施工会社で、デザイナーをしている、「まちのえんがわ」の隣に住む、通称サッチーが担当した。こぢんまりしたワークショップだったが、出来上がった作品に、参加者の誰もが笑顔になる姿を見て、少人数故のアットホームなワークショップの良さを再発見した心地良いお昼だった。





九州にフェリーで行くのは初体験だったが、乗船してすぐに食堂に行くと、順番待ちの長蛇の行列で驚いた。30分近く並んでようやく着席する。意外と、この年になっても、バイキングになると、食べ過ぎてしまう、その心のありようが、情けなくもある。お風呂もいっぱいで、早々に寝る事にして、2歳の孫イッケイと、2段ベットの上で一緒に寝るが、すぐに女性二人の寝息はしてきたが、コウフンするイッケイは寝付くはずもなく、仕方ないので、探検と称して、フェリーのなかをウロウロする。デッキは風が強く、真っ暗で、鉄扉を開けた途端、お化け屋敷に連れ込まれるかの形相で、手をぐぃーっと引っ張って立ち止まて、怖い!と呟やいた、その姿が印象的だった。4人部屋の二段ベットの高さの寸法とか、ベットとベットの間隔とか、ステンレスの大きなRのついた窓とか、船のディテールはよくできているよな…..。



5日の大阪への帰り道。下関の唐子市場でお昼でも食べて帰ろうかと相談してると、高速道路の降り口














